て払拭《ほっしき》せよ。塵埃《じんあい》を惹《ひ》かしむること勿《なか》れ」
私どもの身体は、ちょうど、一本の菩提《さとり》の樹《き》だ。心は清く澄んだ鏡である。しかし塵埃《あか》が溜《たま》る[#「溜《たま》る」は底本では「溜《たま》まる」]から、始終いつもそれを綺麗に掃除しておかねばならない、ということばは、たいへん意味ふかいものです。かの愚者といわれた周利槃特が、「塵を払え、垢を除け」という詞《ことば》を、単に外面的に皮相的に考えずして、内面的にもっと深く思索して、ついにさとり[#「さとり」に傍点]を開いたように、私どもは「化粧と修養」のほんとうの意味を、内面的に思索し、生活によって把握《はあく》する必要があると存じます。
話はつい横道へそれましたが、かの「菩薩《ぼさつ》の疾《やま》いは大悲より発《おこ》る」という『維摩経《ゆいまぎょう》』の文句は、非常に考えさせられることばだと思います。どなたかの歌に、
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立ちならぶ仏の像《すがた》いま見ればみな苦しみに耐えしみすがた
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というのがあります。ほんとうに味わうべき歌です。一切の
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