迷いの世界と、悟りの世界が示されています。すなわち恋と悋気の世界は、つまり迷いの世界です。あきらめられぬ世界です。だが恋もなく悋気もない世界は、悟りの世界です。スッパリ諦《あきら》めた世界です。もうそこにはうき世の苦しみ、悩みはありませぬ。しかし、果たして自分《おのれ》一人が涼しい顔をして、悟りすましておられましょうか。「鹿《しか》の鳴くこえを聞けば昔が恋しゅうて」とは、決して妻こう鹿のなく声ではありません。恋に泣き、悋気に悩むその声です。社会苦に泣き、人間苦に悩むその切ない叫びです。「衆生《しゅじょう》疾《や》むが故に、われ亦《また》疾む」という菩薩は、とうてい大衆のやるせない叫びに、耳を傾けずにはおられないのです。「他人は他人、俺《おれ》は俺だ」などといって、すましてはおられないのです。「大悲|駭《おどろ》いて火宅の門に入る」で、もうジッとしてはおられないのです。「逢《あ》いたさ見たさに来たわいな」というのはそれです。だが、それは決して久米の仙人《せんにん》が、神通力を失って、下界へ墜落した、というようなものではないのです。それは転落[#「転落」に傍点]ではなくて、随順です。墜落で
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