はなくて、やむにやまれぬ菩薩の大悲[#「菩薩の大悲」に傍点]です。「照れば降れ降れば照れとの叫びかな[#「照れば降れ降れば照れとの叫びかな」は太字]」で、私ども人間は勝手なものです。照ればもう降ってくれればよい。降れば、もうやんでくれればよい。実に気儘《きまま》な存在《もの》です。その頑是《がんぜ》ない駄々《だだ》っ子のような私どもを、ながい目で見守りつつ、いつも救いの手をさしのべるのが菩薩です。げに菩薩とは、自分《おのれ》の生きてゆくことが、そのまま他人の生きてゆく光ともなり、力ともなり、塩ともなりうる人です。
無所得の所得[#「無所得の所得」は太字] 要するにこの一段は私どもにして、一度、菩薩の般若の智慧を体得するならば、何人も心になんのわだかまりもなく、さわりもない、かくてこそわれらははじめて、一切の迷いや妄想《もうぞう》をうち破って、ほんとうの涅槃《さとり》の境地に達することができる。しかもそれが「無所得の大所得」だ、ということを教えたものであります。
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第十講 般若は仏陀《ほとけ》の母
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三世[#(ノ)
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