の人」でありうるのです。まことに、ひっかかりなしに、自由に働きうることは、求めざる人によってのみ可能であるのです。次に『心経』に「※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]礙なきが故に恐怖《くふ》あることなし」とありますが、恐怖《くふ》とは、ものにおじることです。ものに怯《おび》え怖《おそ》れることです。恐ろしいという気持です。つまり不安です。心配です。心の中に、なんの恐れも、憂いも、心配も、苦労もない、というのが、「恐怖あることなし」です。浅草の観音さまへお参りすると、有名な玄岱《げんたい》という人の書いた「|施無畏[#「施無畏」は太字]《せむい》」という額があります。施無畏とは、無畏《むい》を施すということで、元来、仏さまのことを一般に施無畏と申しますが、ここでは観音さまを指《さ》すのです。畏《い》とは恐れるという字です。慈悲そのものの権化《ごんげ》たる観音さまは、愛憐《あいれん》の御手で、私どもを抱きとってくださるから、私どもには、なんの不安も恐れもないのです。だから観音さまのことを、「無畏を施すもの」、すなわち「施無畏」というのです。いったい「施す」ということは、さきほ
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