、花の生命があるように、死んでゆくところに、いや死なねばならぬところに、生の価値[#「価値」に傍点]があるのです。生の尊さ、ありがたさがあるのです。ゆえに空に徹したる人は、生きねばならぬ時には、石に噛《かじ》りついても、必ず生をりっぱに生かそうと努力します。生死《しょうじ》に囚《とら》われざる人は、所詮《しょせん》死を怖《おそ》れざる人です。死を怖れざるゆえに、死なねばならぬときに莞爾《にっこ》と笑って死んでゆくのです。ゆえにそれはいたずらに死を求める人ではありません。「死を怖れず、死を求めず」といった西郷南洲のことばは、真に味わうべき言葉だと思います。昔から「千金の子は、盗賊に死せず」といいます。「君子は分陰を惜しむ」といいます。たしかにそれは真実です。寸陰を惜しみ[#「寸陰を惜しみ」に傍点]、分陰を惜しみ[#「分陰を惜しみ」に傍点]、生の限りなき尊さを味わうものにして[#「生の限りなき尊さを味わうものにして」に傍点]、はじめていつ死んでもかまわない[#「はじめていつ死んでもかまわない」に傍点]、という貴い体験が生まれるのです[#「という貴い体験が生まれるのです」に傍点]。覚悟《はら》ができるのです。いつも「明日」と同盟[#「同盟」に傍点]する人は「今日」の貴さをほんとうに知らない人です。いつも「明日」と約束する人は、「今日」を真に活《い》かさない人です。
ローマの哲学者ポエチウスは牢獄《ろうごく》のなかで死刑の日を前にして『哲学の慰め』というりっぱな本を書いていますが、これに似た話が中国にもあります。今からちょうど千五百年以前のことです。中国に僧肇《そうじょう》という若い仏教学者がありました。彼は有名な羅什《らじゅう》三蔵の門下で、三千の門下生のうちでも、特に優《すぐ》れたりっぱな学者でありました。しかし、ある事件のため、時の王様の怒りに触れて、将《まさ》に斬罪《ざんざい》に処せられんとしたのです。その時、彼は何を思ってか、七日問の命乞《いのちご》いをいたしました。彼は、その七日間に、獄中において、みんごと『法蔵論』という一巻の書物を書き上げました。そして、従容《しょうよう》として刑場の露と消えたということです。時に彼三十一歳、その臨終の遺偈《いげ》は、まことにりっぱなものであります。「四大|元《もと》主なし。五|陰《おん》本来空。首《こうべ》を以《もっ》て白
前へ
次へ
全131ページ中50ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高神 覚昇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング