、すべてのものは、ちょうど河《かわ》の水のようにつねに流れているのです。動いているのです。ベルグソンもいっているように、私どもは同じ河の流れに、二度と足を洗うことはできないのです。水の流れは、つねに昼夜をわかたず、流れ流れて止《や》みません。一度足を洗った水は二度と帰らぬ水です。だが、それはひとり河の水ばかりではありません。私どももまた、つねに変化し移りかわっているのです。昨日の私は、もう今日の私ではありません。今日の私は、もはや明日の私でもありません。したがってこの「万物流転」と「相対依存」とは、まさしく因縁という母胎から生まれた、二つの原理であるわけです。縦[#「縦」に傍点](時間的)から見れば万物流転[#「から見れば万物流転」に傍点]、横[#「横」に傍点](空間的)から見れば相対依存[#「から見れば相対依存」に傍点]、この二つの原理は、実に疑うことのできない、宇宙の真理です。しかもこの真理に目覚《めざ》める時、私どもは、そこにはじめて国家、社会、人類の「恩」を感じ、「人生の尊さ」をハッキリ知ることができるのです。自分独りの自分ではない。私独りの私ではない。すべてのものによって養われている私、一切のものによって生かされている自分を、ほんとうに心から知った時、私どもは、そこにしみじみと、今さらながら、恩すなわちおかげさまということを感ずるのであります。ありがたい、もったいない、すまない、という感謝報恩の心は、湧然《ゆうぜん》として、ほとばしり出るのです。したがって、自己《おのれ》の生活に対して、何の懺悔《さんげ》も、反省もなしに、ただいたずらに世を呪《のろ》い、人を怨《うら》むことは、全く沙汰《さた》の限りといわざるを得ないのです。自分の身体にくっついた虱《しらみ》を怨む前に、まず私どもは虱をつけている自己の身体の不潔[#「不潔」に傍点]を反省せねばなりません。しかも一たび「因縁の原理」に目覚め真に「般若《はんにゃ》の空《くう》」に徹したものは、生のはかなさを知ると同時にまた[#「生のはかなさを知ると同時にまた」に傍点]、生の尊さを知るのです[#「生の尊さを知るのです」に傍点]。実をいえば、生ははかないがゆえに尊いのです[#「生ははかないがゆえに尊いのです」に傍点]。「散ればこそいとど桜はめでたけれ[#「散ればこそいとど桜はめでたけれ」は太字]」です。散るところに
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