まり所縁、すなわち心によって認識せられる対象であるわけです。しかも私どもの認識を離れて、一切万物は存在しませぬから、『心経』の本文に、
「眼耳鼻舌身意もなく、色声香味触法もなく、眼界もなく、乃至《ないし》意識界もなし」
といっているのは、結局「一切は皆空なり[#「一切は皆空なり」は太字]」ということを、くわしく分析して説明したものです。で、頭のするどい[#「するどい」に傍点]人には、はじめから「一切は皆空なり」といえば、すぐに「なるほどそうだ」、とわかるのですが、いまだ「空」の意味を理解しないものは、まず「五|蘊《うん》」の空なることを説き、それでもわからぬものには、「六根」と「六境」の空なることを説明し、さらにそれでもまだ理解し得ないものには、もういっそう詳しく「六根」と「六境」と「六識」の関係を説明したのでありまして、つまりは、「因縁によって作られている、私どもの世界の一切の存在《もの》は、ことごとく空なり」ということを、説明したものにほかならぬのです。まことに「因縁」より生ずる所の、一切のものは、ことごとく空です。したがって一切の事物は、皆すべて相対依存[#「相対依存」に傍点]の関係にあるわけです。もちつもたれつ[#「もちつもたれつ」は太字]とは、独《ひと》り人間同志の問題ではありません。世間の一切の万物、皆もちつもたれつなのです。現代の物理学者は相補性原理といっています。相補性原理とは、もちつもたれつということです。有名なアインシュタインはかつて相対性原理を唱えましたが、もはやそれは古典物理学に属するもので、今日ではすべてのものは、互いにもちつもたれつの関係にある、すなわち相補性原理こそが真実だといわれています。
したがってそれはもちつ[#「もちつ」に傍点]、もちつ[#「もちつ」に傍点]でもなければ、またもたれつ[#「もたれつ」に傍点]、もたれつ[#「もたれつ」に傍点]でもなく、あくまでもちつ[#「もちつ」に傍点]、もたれつ[#「もたれつ」に傍点]です。まったく「もちつ、もたれつ、互いによらにゃ、人という字は立ちはせぬ」です。宇宙間の一切の事物もそうですが、特に人間はどこまでも、もちつもたれつ、生かし生かされつつあるべきです。しかもそれがとりも直さず因縁の関係です。相対依存の関係です。ところが一切の万物《もの》は、もちつもたれつの存在であるばかりでなく
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