だと思います。本日はこの二つの句を契機《きっかけ》といたしまして、いささか『心経』の心を味わってゆきたいと思います。
 さて、お経の本文は、
「是《こ》の故に、空の中には色もなく、受、想、行、識もなく、眼、耳、鼻、舌、身、意もなく、色、声、香、味、触、法もなく、眼界もなく、乃至《ないし》、意識界もなし」
 というのであります。この一節は、仏教の世界観[#「仏教の世界観」は太字]を物語る「三|科《が》の法門」すなわち「蘊」「処」「界」の三種の方面から、「一切は空なり」ということを、反覆《くりかえ》して説いたものであります。ところで、まず「蘊」ということですが、いうまでもなく蘊とは五蘊のことです。もっとも、この五蘊のことは、すでにたびたび申し上げた通り、私たち(我)をはじめ、私たちの世界(我所)を構成している五つの元素です。すなわち眼に見、耳に聞き、鼻に嗅《か》ぎ、舌に味わい、身に触れることのできる一切の客観の世界は、ことごとくこの「色」の中に摂《おさ》まるのです。次に五蘊の中の「受」「想」「行」「識」の四は、意識《こころ》の作用で、すべて主観に属するものです。しかも、主観の主観[#「主観の主観」に傍点]ともいうべきものは、第四の識であって、この意識が、客観の「色」と交渉し、関係することによって、生ずる心象《こころのすがた》が、受と想と行との三であります。したがって「五蘊は空[#「五蘊は空」は太字]」だということは、つまり、世間にある一切の存在《もの》はみんな空だということになるのであります。ゆえに「空の中には色もない、受、想、行、識もない」といえば、私どもも[#「私どもも」に傍点]、私どもの住んでいる世界も[#「私どもの住んでいる世界も」に傍点]、つまり[#「つまり」に傍点]、一切のものはすべて空なる状態にあるのだ[#「一切のものはすべて空なる状態にあるのだ」に傍点]、ただ因縁によって仮に有るものであるから、執着すべき何物もない、ということになるわけであります。
 次に「処」とは、十二処ということで、「六根」と「六境」といったものです。ところでその六根とは、あの富士山や御嶽《おんたけ》山などへ登る行者たちが、「懺悔《さんげ》懺悔、六|根清浄[#「六|根清浄」は太字]《こんしょうじょう》」と唱える、あの六根で、それは眼、耳、鼻、舌、身の五官、すなわち五根に、「意根」を加
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