えて六根といったので、つまり私どもの身と心のことです。別な語でいえば心身清浄ということが六根清浄です。そこで、この「根」という字ですが、昔から、根とは、識を発《おこ》して境を取る(発識取境《はっしきしゅきょう》)の義であるとか、または勝義自在《しょうぎじざい》の義などと、専門的にはずいぶんむずかしく解釈をしておりますが、要するに根[#「根」に傍点]とは「草木の根」などという、その根で、根源とか根本とかいう意味です。すなわちこの六根は、六識が外境《そとのもの》を認識する場合は、そのよりどころとなり、根本となるものであるから、「根」といったのです。ところが面白いことには、仏教ではこの「根」をば、「扶塵根《ぶじんこん》」と「勝義根《しょうぎこん》」との二つに分けて説明しておるのです。たとえば、眼でいうならば、眼球《めのたま》は扶塵根[#「扶塵根」に傍点]で、視神経は勝義根[#「勝義根」に傍点]です。したがって、そこひ[#「そこひ」に傍点]の人のごとく、たとい眼球はあっても、視神経が麻痺《まひ》しておれば、色は見えませぬ。これと同時に、視神経はいかに健全でも、盲人のように眼球がなければ、ものを見ることはできないわけです。それゆえに、この「勝義根」と「扶塵根」、つまり「視神経[#「視神経」は太字]」と[#「と」は太字]「眼球[#「眼球」は太字]」との二つが、揃《そろ》って完全であってこそ、はじめて私どもの眼は、眼の作用《はたらき》をするわけです。しかもこれは他の五根についても同様であります。
対象の世界[#「対象の世界」は太字] 次に六境とは、六根の対象になるもので、色《しき》と声《しょう》と香と味と触《そく》と法とであります。六根に対する六つの境界という意味で、六境といったのです。ところで、この六境をまた「六塵」ともいうことがありますが、この場合、「塵」とは、ものを穢《けが》すという意味で、私たちの浄《きよ》らかな心を汚《よご》し、迷わすものは、つまりこの外からくる色と声と香と味と触と法とであるから、「六|境《きょう》」をまた「六|塵《じん》」ともいうのです。「六塵の境界」などというのはそれです。ただし六塵の中の「法塵」は、意根の対象となるもので、嬉《うれ》しいとか、悲しいとか、憎いとかかわいいとかいう精神上の作用《はたらき》(心法《しんぽう》)をいったものです。けだし、
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