のであります。ところで、ここには、否定[#「否定」に傍点]を表わす「不」という語が六つあります。いわゆる「六不」ですが、しかしこれはあながち六不に局《かぎ》ったことではなく、いくつ「不」があってもよいわけです。八不[#「八不」に傍点]、十不[#「十不」に傍点]、十二不[#「十二不」に傍点]という語が、お経に出ておりますが、いま『心経』は、この「六不」によって、一切の「不[#「不」に傍点]」を代表させているのであります。で、結局は不の一字[#「不の一字」は太字]さえわかれば、一つの「不」で結構なのであります。いま試みに不生、不滅という語をとって考えてみましょう。さてこの不生[#「不生」に傍点]、不滅[#「不滅」に傍点]という語を、もう一度他の語で申せば、「生滅を滅し已《おわ》る」すなわち「生滅|滅已《めつい》」ということです。あの「いろは歌」でいえば、「うゐのおくやまけふ越えて[#「うゐのおくやまけふ越えて」は太字]」という句に当たるのです。うゐのおくやまを越える、ということは、つまり生死《しょうじ》に囚われる迷いの心を、解脱するということです。しかもそれが不生不滅[#「不生不滅」に傍点]という意味です。生滅を滅し已《おわ》るということです。しかし、一歩退いて考えまするに、「生滅」ということは、変化ということで、少なくとも変化は、生滅によって起こるものです。「無常」、「変化」、「流転」、いずれもそれは疑うべからざる現前の事実です。したがって生滅を滅するとか、あるいは不生不滅だとかいうことは、いかにも、合点のゆかぬことのように思われるのです。まことに、一応は無理からぬことであります。しかし再応、これを吟味しますと、それは、なにも不合理な不可解なことばではありません。すなわち「生滅を滅し已る[#「生滅を滅し已る」に傍点]」ということは、要するに、生に囚われ、滅に囚われる、その「囚われの心[#「囚われの心」は太字]」、「執着の心」を離れるという意味なのです。芭蕉は、俳句の心は「無心所着」といっていますが、この「心に所着[#「所着」に傍点]なし」という境地が、生滅を滅し已るという世界で、ものにこだわりのない日本人の明朗性も、ここにあるのです。ゆえに不生不滅ということは、むかしから仏教学者は、波[#「波」に傍点]と水[#「水」に傍点]との関係のように解釈しています。波という現象
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