の上から見れば、生滅起伏もあるが、水という本体そのものの上には、なんらの変化はないという立場から、「生滅」と「不生不滅」を眺《なが》めて、現象と本体の関係において見てゆくことも、もちろん、必要ではありましょう。しかし、これと同時に、私どもは、生じたといっては喜び、滅したといっては悲しむ、その「囚われの心」、「執着する心」、その「迷いの心」を否定するという意味で、この「不生不滅」の原理を味わってゆかねばならぬと思います。かの「エネルギー不滅の法則」が、科学的真理であるように、また、宇宙の万物を構成する電子の量が、一定不変であるというように、「因縁」の集合によって、できている一切のもの、「空の状態」における一切の事々物々は、ことごとく不生不滅です。不増不減であるのです。
かく申しますと、人あるいはいうかも知れません。「それは宇宙の実相《すがた》は、不生不滅[#「不生不滅」に傍点]かも知れん。いや不生不滅であるだろう。しかしわれわれ個人には、やはり依然として『生滅[#「生滅」に傍点]』という事実があるではないか。生きたり、死んだりする事実があるのじゃないか。われわれは、そんな宇宙[#「宇宙」に傍点]がどうの、不生不滅[#「不生不滅」に傍点]がどうの、空[#「空」に傍点]がどうの、般若[#「般若」に傍点]がどうのというような、自分らの生活と、全く縁の遠い理窟《りくつ》を、聞こうとは思わないのだ」と難詰《なんきつ》せられる方があるかも知れませぬ。が、しかしです。「無用の用[#「無用の用」は太字]」こそ「真の用」ではありませんか。理窟と見るは所詮《しょせん》僻目《ひがめ》です。「空」の原理、「不生不滅」の真理、それは偽ることのできない道理[#「道理」に傍点]です。いや、どうしても疑うことのできない事実です。仰せの通り、われわれ個人には、生き死にがあります。「自分の家」では、赤ん坊が生まれたかと思うと、「隣りの家」では、悲しい不幸が起こっているのです。人に生死[#「生死」に傍点]があるように、世間にもまた生滅があります。
しかしその生死の根本を尋ねたならばどうでしょうか。道元|禅師《ぜんじ》はいっております。
生をあきらめ死をあきらめる[#「生をあきらめ死をあきらめる」は太字] 「生を諦《あきら》め、死を明らむるは、これ仏家一大事因縁なり」
と。だがしかし、生を諦め、死を
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