見れば、どこかきっと違っている所があるのです。単に、顔や形のみではなくて、人間の性質も気心も、また文字通り、千差万別です。したがって、病に応ずる薬が、それぞれあるように、人間の身の悩み、心の悶《もだ》えを、救う仏にもまたいろいろ変わった相《すがた》があるわけです。
「釈迦《しゃか》 阿弥陀《あみだ》 地蔵 薬師と変れども 同じ心の仏なりけり」で、結局、数あるもろもろの仏は、ことごとく皆同じ心、すなわち慈悲[#「慈悲」に傍点]という精神、大慈大悲のこころの顕《あらわ》れにほかならぬのであります。ところが、慈悲といっても、それは決して智慧のない慈悲[#「智慧のない慈悲」は太字]ではないのです。仏教では、これを「愛見の大悲」といっておりますが、ほんとうの慈悲は、盲目的な愛、母牛が仔牛《こうし》を甜《な》めるような、そんな愛ではないのです。真の智慧によって、裏づけられているほんとうの愛が、すなわち仏教の慈悲なのです。だから、少なくとも仏教では、慈悲と智慧とは二にして一だというのです。今日、仏といえば、誰しも、すぐに観音さま、地蔵さま、阿弥陀さまといったような、いかにも微妙端厳《みみょうたんごん》な、やさしい容姿《すがた》の仏を思い起こします。しかし、仏さまのうちには、不動明王というような、見るからにいかにも恐ろしい仏もあります。「あれでも仏さまか」と疑うほどの恐ろしいお容貌《すがた》の仏さまがあるのです。もっとも、同じ観音さまでも、やさしい顔や相《すがた》の仏さまだ、とばかり思っていると、中には「馬頭観音」とて、不動明王にも、勝《まさ》るとも劣らぬ、恐ろしい姿をしている観音さまもあります。武蔵野《むさしの》などを散歩していますと、よく路傍の石碑《いし》にきざんである、この仏のおすがたを見うけるのですが、とにかく、仏さまなら、もう阿弥陀|如来《にょらい》だけでよい、大日如来だけでよい、釈迦如来だけでも結構なようですが、衆生の機根万差《きこんまんじゃ》ですから、これを救う方にもいろいろな形をした仏があるわけです。仏教では、三世に亙《わた》り、十方に遍《あまね》く、たくさんの仏さまが、おられると説いているのです。けだし、これは果たしてどんな意味なのでしょうか。
厳父と慈母[#「厳父と慈母」は太字] いったい、私どもの家庭、それは単純な家庭もあろうし、複雑な家庭もありましょう。ま
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