「|管[#「管」は太字]《くだ》の穴から天|覗[#「の穴から天|覗」は太字]《のぞ》く[#「く」は太字]」という諺《ことわざ》があります。むろん、覗いた天も天です。しかし、それはあくまで、天の一部であって、断じて天の全部ではありません。一部を覗いて、全部だと考えることは、大なる「認識不足」といわざるを得ないのです。「井蛙管見《せいあかんけん》」として排撃せられるのも、また無理からぬことです。したがって、少なくとも唯物史観[#「唯物史観」に傍点]に囚《とら》われ、「利益社会」だけをもって、社会のすべてだと考えることは、どこまでも偏見です。いや、偏見というよりも、むしろ恐るべき危険[#「恐るべき危険」に傍点]が、そこに伏在していると存じます。いったい、ものを深く本質的に、また立体的に考えない人々には、なんといっても形のない心よりも、形のある物の方が、眼にはよく見えるものです。で、自然と心より物の方がほんとうの存在のように考えるのですが、物だけで、パンだけで一切の問題が解決されると思ったら、それこそ大間違いです。しかし、そういったからといって、私どもは、一切は心からだといって、精神だけで、人間も社会も、動いているものと、いうのではありません。唯物史観が偏見であったごとく、何もかも心だ[#「何もかも心だ」に傍点]、といって物質生活、経済生活を否定することも、また同じ意味において、偏見といわざるを得ないのです。精神だけでもって、思想だけでもって、社会が動いていると考えている人は、おそらくないと存じます。「わが抱《いだ》く思想はすべて金なきに因するごとし秋の風吹く」と、薄命詩人石川|啄木《たくぼく》は詠《よ》んでいます。経済のみ[#「経済のみ」に傍点]によってとは、あえて申しませぬが、パンによって、経済によって、現実の社会が動いていることもまた見逃《みのが》しえない事実です。「共同社会」の一面には、儼然《げんぜん》として「利益社会」の存在することも、ハッキリ知っておかねばなりませぬ。だから、唯物論的な見方も、偏見であるように、観念論的な見方も、正しい見方、正見とはいえないのです。意識が存在を決定するように、また存在も意識を規定するのです。私は十数年前から、仏教史観[#「仏教史観」に傍点][#「仏教史観[#「仏教史観」に傍点]」は太字]ということを提唱してきました。この言葉は私が
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