て縁の深い関係にあるのです。|躓[#「躓」は太字]《つまず》く石も縁のはし[#「はし」に傍点][#「く石も縁のはし[#「はし」に傍点]」は太字]です。袖《そで》ふりあうも他生《たしょう》の縁です。一河の流れ、一樹の蔭《かげ》、みなこれ他生の縁です。だが、それは決して理窟《りくつ》や理論ではありませぬ。考えるからそうだ[#「考えるからそうだ」に傍点]、仏教的にいうからそうだ[#「仏教的にいうからそうだ」に傍点]、というのではありません。考える考えぬの問題ではないのです。仏教的だとか、仏教的でないなどという問題ではないのです。これはほんとうに事実[#「事実」に傍点]なんです。真実なのです。事実は、真実は、何よりも雄弁です。いま私のいる部屋《へや》には、一|箇[#「一|箇」は太字]《こ》の|円[#「の|円」は太字]《まる》い時計[#「い時計」は太字]がかかっています。この時計の表面は、ただ長い針と短い針とが、動いているだけです。しかし、いま、かりに、この時計の裏面を解剖してみるとしたらどうでしょうか。そこには、きわめて精巧、複雑な機械があって、これが互いに結合し、和合して、その表面の針を動かしているのではありませんか。私は現にただ今この東京|鷺宮《さぎのみや》の無窓塾《むそうじゅく》の書斎でペンを動かしています。これはもちろん、簡単な事実[#「簡単な事実」に傍点]です。しかしこの無窓塾がどこにあるかを考え、私、および私の故郷|伊勢《いせ》の国のことなどを考えて、だんだん深く、そして広く考えてゆきますと、終《つい》にはこの一箇の私という存在は、全日本はおろか、全世界のすべてに関係し関聯《かんれん》していることになるのです。かように、一事一物、皆ことごとく関聯していないものはないのです。ただ、私どもがそれを知らないだけのことなのです。しかし知ると知らざるとにかかわらず、一切のものは[#「一切のものは」に傍点]互いに無限の関係《つながり》において存在しているのです。次にまた時間的に申しましても、今日という一日は、決して昨日なしにないのです。明日ときり離して、今日一日だけがあるのではありません。今日は単なる今日でなくて、ライプニッツのいうように、「昨日を背負い[#「昨日を背負い」は太字]、明日を|孕[#「明日を|孕」は太字]《はら》んでいる今日[#「んでいる今日」は太字]」なので
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