傍点]のです。
私の友人に辻正次という数学の博士がおります。私は試みに、辻博士に「一とは何か」と聞いてみたことがあります。ところが、博士のいわく、「数学では、一とはすでにわかったもの[#「すでにわかったもの」に傍点]、として計算してゆくのだ」と答えましたが、しかし、たとい一とはわかったもの、として計算していっても、やはり一とは何か、ということを、説明してほしいのです。いちばん安心してよい数学が、こんな調子であります。いわんや、他の科学においてをや、ナンテ申しますと、天下の科学者から、エライお小言を頂戴《ちょうだい》することになるかも知れませんが、とにかくわかったもの[#「わかったもの」に傍点]、「自明の理」と思っていることでも、いざ説明、となると容易に説明し得ないのであります。
公開せる秘密[#「公開せる秘密」は太字] さすがに詩人ゲーテです。一プラス一、それは「|公開せる秘密《エッフェントリッヒゲハイムニス》」だといっているのです。私どもは、ただそれを神秘的直観、宗教的直観[#「宗教的直観」に傍点]によってのみ、知ることができるといっているのですが、公開せる秘密[#「公開せる秘密」に傍点]とは、まことにうまいことをいったものです。宗教的直観によるのだという語は、ほんとうに味のある、意味ふかい言葉だと存じます。いったい、私どもお互い人間のもつ、言葉や思想というものは、完全のようで実は不完全なものです。思うこと[#「思うこと」に傍点]、いいたいこと[#「いいたいこと」に傍点]、それはなかなか思うように話すことができないものです。最も悲しい世界、最も嬉《うれ》しい境地というものは、とうていありのままに、筆や口に、表現できるものではありません。イヤ、筆にはまだ、どうとも書けましょうが、言葉では、とても思いのままを、率直に、他人につたえることはできないのです。
文殊と維摩の問答[#「文殊と維摩の問答」は太字] ところで、これについて想《おも》い起こすことは、あの『維摩経《ゆいまぎょう》』にある維摩居士《ゆいまこじ》と文殊菩薩《もんじゅぼさつ》との問答です。あるとき、維摩が文殊に対して、不二の法門、すなわち真理とはどんなものか、と質問したのです。その時、文殊菩薩は、こう答えています。
「不二の法門は、私どもの言葉では、説くことも、語ることもできないものです。真理は一切の
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