とする唯心論も、いずれも偏見で、共に仏教のとらざる所でありまして、主観も客観も、一切の事々物々、みなことごとく、五蘊の集合[#「五蘊の集合」に傍点]によってできているというのが、仏教の根本的見方でありますから、いわゆる物心一如、または色心不二の見方[#「色心不二の見方」は太字]が、最も正しい世界観、人生観である、ということになるわけであります。
 空ということ[#「空ということ」は太字] 次に「空」ということばでありますが、これがまた実に厄介《やっかい》な語《ことば》で、わかったようでわからぬ、わからぬようでわかっている語であります。ただ今、皆さんに対《むか》って、私が、かりに、一と一を加えると、いくつになりますか、と問うたとしたら、キット皆さんは「なんだ馬鹿馬鹿《ばかばか》しい」といって御立腹になりましょう。しかし、いったい、その一[#「一」に傍点]とはなん[#「一[#「一」に傍点]とはなん」は太字]ですか。一と一とを加えると、なぜ二になるのですか、というふうに、一歩進んでお尋ねした時、果たしてどうでありましょう?
 私のただ今ペンをとっている書斎には、机があり、座ぶとんがあり、インキ壺《つぼ》があり、花瓶《かびん》などがあります。いずれもこれはみな一です。しかし、机が一で、花瓶が一でないとはいえないのです。机が一なれば、花瓶も一です。かくいう私も一です。この私の書斎も一です。東京も一です。日本も一、世界も一です。だから、改まっていま「一とはなんぞや」ということになると、非常に厄介になってくるのです。しかし、ここにあるこの花瓶と、寸分違わぬ同じ花瓶は、世界広しといえども、この花瓶以外には、一つもないのですから、これはタッタ一つの花瓶です。かくのごとく世界のものはすべて皆|タッタ一つ[#「タッタ一つ」は太字]《オンリー・ワン》の存在です。だから、もしも、この青磁の花瓶と同じ花瓶が、もう一つほかにあったら、二つになるのですが、事実はないのです。したがってなにゆえに、一と一とを加えると二となるか、というきわめて簡単なわかりきった問題でも、こうなると非常にむずかしくなるわけです。あの最も精密なる科学、といわれる数学でさえ、私どもにはすでにわかったものとして、「なにゆえに」ということは教えてくれないのです。いや「一とは何か」となると、それを説明し得ない[#「説明し得ない」に
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