ゅうじゅ》菩薩は、『智度論』という書物の中で、「智目行足《ちもくぎょうそく》以て清涼《せいりょう》池に到る」といっておりますが、清涼池とは、清く涼しい池という文字ですが、これは迷いを離れた涅槃《さとり》の世界を譬《たと》えていったものです。この涅槃《ねはん》の証《さとり》へ達するには、どうしても、この智目と行足とが必要なのです。智慧の目と、実行の足、それは清涼池《さとり》への唯一の道なのです。ですから、昔から仏教では、この智目行足[#「智目行足」に傍点]ということを非常に重要視しています。ところで、その「智目」というのが智慧の眼(般若)のことです。つまり正しき認識[#「正しき認識」に傍点]、理論[#「理論」に傍点]ということです。次に「行足」とは、実行(五行)です。正しき[#「正しき」に傍点]実践ということです。いったい、実行の伴わない理論は、灰色でありますが、同時にまた、理論の伴わぬ、いわゆる筋のたたぬ実践も、またきわめて危険です。智目と行足を主張する、仏教の立場は、あくまで正しき理論と実践との高次的な統一を主張するものであります。したがって仏教における哲学と宗教とは、要するに、この智目と行足との関係にあるわけです。ゆえに、ほんとうに、自ら仏教を学び、しかも行ずるものにして、はじめて仏教の真面目を認識し把握《はあく》することができるのです。かようなわけで、仏教では一口に、智慧と申しましても、これに三種あるといっております。聞慧《もんえ》と思慧《しえ》と修慧《しゅうえ》との三慧[#「三慧」は太字]がそれです。すなわち第一に聞慧というのは、耳から聞いた智慧です。きき噛《かじ》りの智慧です。智慧には違いありませんが、ほんとうの智慧とはいえません。次に思慧とは、思い考えた智慧です。耳に聞いた智慧を、もう一度、心で思い直し、考え直した智慧です。思索して得た智慧です。すでにいったごとく、カントは、教えている学生にむかって、つねに哲学すること[#「哲学すること」に傍点]の必要を叫びました。
「諸君は哲学を学ぶより、哲学することを学べ。私は諸君に哲学を教えんとするのではない。哲学することを教えるのだ」
といったと、伝えておりますが、そのいわゆる哲学する[#「哲学する」に傍点]ことによって得た智慧が、この思慧に当たると思います。だから思慧は哲学の領分です[#「思慧は哲学の領分です
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