」に傍点]。次に修慧[#「修慧」に傍点]とは、実践によって把握せられた智慧です。自ら行ずることによって得た智慧です。したがってそれは宗教の領分[#「宗教の領分」に傍点]です。語るよりも歩むというのがそれです。その昔、覚鑁《かくばん》上人(興教大師)は、
「もし自分のいうことが、うそいつわり[#「うそいつわり」に傍点]だと、思うならば、自ら修して知れ[#「修して知れ」に傍点]」
 といっていますが、その修するというのが、この修慧です。だから三慧のうちで、この修慧がいちばんほんとうの智慧です。

[#ここから2字下げ]
耳にきき心におもい身に修せばいつか菩提《さとり》に入相《いりあい》の鐘
[#ここで字下げ終わり]

 という古歌は、まさしくさとりへの道をうたったものです。
 かように、智慧には三種の区別があるように、私どもが平素、お経をよむ場合でも、いや、単にお経のみにかぎったことでもありませんが、ただ口だけでよむのではだめです。いわゆる「論語よみの論語知らず[#「論語よみの論語知らず」は太字]」ですから、それを心でよみ、さらにそれを身体でよまねばなりません。すなわち身読し、色読する必要があるのです。その昔、日蓮上人は『法華経《ほけきょう》』を幾度なく色読せられたといっていますが、『法華経』を読誦《どくじゅ》し、信仰する人は、ぜひとも『法華経』を口でよむばかりでなく、心でこれをよみ、さらにこれを身体で実行する、いわゆる「法華の行者」にならねばウソであります。『心経』においても、それは同様です。われらは、まさしく『心経』を、心読し、さらにこれを身読してゆきたいのです。般若の哲学を[#「般若の哲学を」に傍点]知るだけでなく、進んで般若の宗教を実践[#「般若の宗教を実践」は太字]してゆきたいのであります。
 さて、観自在菩薩が、般若の宗教を体験せられたその結果は、どうであったかといいますと、「五|蘊《うん》はみな空なりと照見《しょうけん》せられて、ついに一切《すべて》の苦厄《くるしみ》を度せられた」というのであります。すなわち一切の苦というものを滅して、この世に理想の平和な浄土を建設されたというのです。したがって、五蘊は皆空、すなわち一切のものみな空だということが、つまり観自在菩薩の体験《さとりの》内容たる般若の真風光であるわけです。ところがここでめんどうな、むずかしい文字
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