宗教をば親しく実践[#「実践」に傍点]されたのです。ところで、この「深」という文字ですが、この深という字については、昔からいろいろむずかしい解釈もありますが、要するに深は浅の反対で、深遠とか、深妙とかいう意味です。観音さまの体得せられた、般若の智慧《ちえ》の奥ふかいことを形容したことばだと考えればいいのです。したがってそれは私ども人間のもっているような、あさはかな智慧ではなく、もっともっと深遠な智慧、すなわち「一切は空なり」と照見した真理の智慧を指していったのです。それから、ここでお互いがよく注意しておかねばならぬ文字は、「般若波羅蜜多を行ずる[#「行ずる」に傍点]」という、この「|行[#「行」は太字]《ぎょう》」ということば[#「ということば」は太字]です。これがたいへん重要なる意味をもっているのです。あえてゲーテを待つまでもなく、いったい宗教の生命は「語るよりもむしろ歩むところにある」のです。いや宗教は、語るべきものではなくて、歩むべきものです。しかも、その歩むというのは、この「行」です。行ずるということが、歩む[#「歩む」に傍点]ことであり、実践する[#「実践する」に傍点]ことなのです。いったい西洋の学問の目的は知るということが主眼ですが、東洋の学問の理想は行なうことが重点です。すなわち知るは行なうのはじめで、知ることは行なわんがためです。しかも行なってみてはじめて、ほんとうの智慧ともなるのです。有名な『中庸』という本に「博《ひろ》く之を学び、審《つまびら》かに之を問い、慎んで之を思い、明らかに之を辨じ、篤《あつ》く之を行う[#「行う」に傍点]」という文句《ことば》がありますが、けだしこれはよく学問そのものの目的、理想を表わしていると思います。ところで観自在菩薩が深般若波羅蜜多を行ずるということは、つまり般若の智慧を完成されたということですが、それは要するに六度の行を実践されたことにほかならぬのです。六度とは六|波羅蜜《はらみつ》のことで、布施《ふせ》(ほどこし)と持戒《じかい》(いましめ)と忍辱《にんにく》(しのび)と精進《しょうじん》(はげみ)と禅定《ぜんじょう》(おちつき)と般若《はんにゃ》(ちえ)でありますが、まえの五つは正しい実践であり、般若は正しい認識であります。
智目と行足[#「智目と行足」は太字] 古来、八宗の祖師といわれるかの有名な竜樹《り
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