[#「浅ましさ」に傍点]が、まざまざ感じられて、厭《いや》な気にもなるのです。道中膝栗毛だからまだよいが、これがもしも私どもの人生の旅路だとしたなら、果たしてどんなものでしょうか。どうせ長くない命だ。勝手に、したい放題なことをして、世を渡るという、そんな不真面目な人生観は、極力排撃せねばならぬのです。いったい私どもの人生は誰でもみんな、ある一つの「使命」を帯びている旅なのです。ひょっこりこの世に生まれ出て、ボンヤリ人生を暮らしてゆくべきではないのです。しかし、世の中には人間の一生道中を、用事を帯びているとも知らず、ただうかうかと暮らしてゆくものが、案外に多いのです。果たしてそれでよいものでしょうか。「うかうかと暮らすようでも瓢箪《ひょうたん》の、胸のあたりにしめくくりあり」とも申しています。私には私だけの用事があるのです。人間多しといえども、私以外にいま一人の私はいないのです。私は私より偉くもないが[#「私は私より偉くもないが」に傍点]、また私よりつまらぬ人間でもない[#「また私よりつまらぬ人間でもない」に傍点]のです。
所詮、私は私です。私の用事は、この私が自分でやらねばなりません。私以外に、誰がこの私の仕事をやってくれるものがありましょう? だから、私どもは、なにも他人の仕事を羨《うらや》む必要はないのです。他人は他人です。私は私の|本分[#「私は私の|本分」は太字]《つとめ》を尽くす[#「を尽くす」は太字]うちに、満足を見出してゆくべきです。したがって、私たちは、決して自分《おのれ》の使命を他人に誇るべきではありません。靴屋《くつや》が靴を作り、桶屋《おけや》が桶を作るように、黙って自分の仕事を、忠実にやってゆけばよいのです。だが、私どもの人生の旅路は、坦々《たんたん》たるアスファルトの鋪道ではありません。山あり、川あり、谷あり、沼ありです。
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越えなばと思いし峯に来てみればなおゆくさきは山路なりけり
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です。「人間万事|塞翁[#「人間万事|塞翁」は太字]《さいおう》が馬[#「が馬」は太字]」です。よいことがあったかと思うと、その蔭《かげ》にはもう不幸が忍び寄っているのです。落胆の沼に陥り、絶望の城に捕虜《とりこ》になったかと思うと、いつの間にやら、また享楽の都を通る旅人になっているのです。いたずらに悲観す
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