く候」は太字]」というのは、なにも独り仏法にのみ限ったことではないのです。でき得べくんば、私どもが人生の書物を書く場合にも、この心持で、なるべく誤植のないように、後から訂正をしなくてもすむように、書いてゆきたいものです。少なくとも「汗」と「膏《あぶら》」の労働によって、勤労によって、一ページずつを、毎日元気に、朗らかな気持で、書いてゆきたいものです。まことに人生のほんとうの喜び楽しみは、断じて、あくことなき所有慾や物質慾によって充《み》たされるものではありません。人生創造の愉快な進軍ラッパ[#「人生創造の愉快な進軍ラッパ」は太字]は、放縦《ほうじゅう》なる享楽の生活に打ち勝って、地味な、真面目《まじめ》な「勤労」に従事することによってのみ、高く、そして勇ましく、吹き鳴らされるのではありませんか。
おもうに、人生を「橋渡り」に、あるいは「一巻の書物」に譬《たと》えることも、きわめて巧みな譬喩《ひゆ》ではありますが、結局、なんといっても私ども人間の一生は旅行です[#「人間の一生は旅行です」は太字]。生まれ落ちてから、死ぬまでの一生は、一つの旅路です。しかし、その旅は、「名物をくうが無筆の道中記」でよいものでしょうか。私どもは二度とないこの尊い人生を、物見遊山の旅路と心得て、果たしてそれでよいものでしょうか。私どもの人生は、断じて「盥《たらい》よりたらいに移る五十年」であってはなりません。
東海道中膝栗毛のこと[#「東海道中膝栗毛のこと」は太字] 十|遍舎《ぺんしゃ》一九の書いた『東海道中|膝栗毛《ひざくりげ》』という書物をご存じでしょう。弥次郎兵衛《やじろべえ》、喜多八の旅行ものがたりです。旅の恥はかきすて、浮世は三分五厘と、人生を茶化して渡る、彼らの馬鹿気《ナンセンス》な行動を読んだ時、全く私どもはふき出さず[#「ふき出さず」に傍点]にはおられません。彼らは、お江戸日本橋をふり出してから、京の都へ落ちつくまで、東海道の五十三|次《つぎ》、どの宿でも、どこの宿場でも、ほんとうに失敗《しくじり》のし通しです。人を馬鹿にしたようなあの茶目ぶり、読んで面白いには相違ありませんが、しかしなんだか嬲《なぶ》られているようで、寂しい感じも起こるのです。「とかく浮世は色と慾[#「とかく浮世は色と慾」は太字]」といったような人生観が、あまりにも露骨に描かれているので、人間の浅ましさ
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