もってわが玉を磨《みが》くべし」だと思います。
 こころの化粧[#「こころの化粧」は太字] ところで、ここでぜひとも申し上げておきたいことは、こころの化粧[#「化粧」に傍点]です。顔や肌の化粧ではなくて、心のなかの化粧であります。むずかしくいえば、精神の修養です。心の養生です。すでに申し上げた、あの心の掃除《そうじ》です。いったい化粧の目的は、顔を美しく綺麗《きれい》に見せるためではなくて、顔や肌の手入れです。掃除です。化ける粧いではなくて、清潔にさっぱりと綺麗に掃除しておくことです。だから、化粧の必要は、婦人でも男子でも同様です。爪《つめ》や頭髪に汚《きたな》い垢《あか》を溜《た》めておいて、何が化粧でしょう? 紅、白粉や、香水などは、ほんのつけたりでよいのです。必ずしもその必要はないのです、にもかかわらず、今日ではそれをいかにも化粧の第一条件にしております。主客|顛倒《てんとう》もはなはだしいといわざるを得ないのです。しかしそれならばまだしも、身の化粧だけはキチンとしておきながら、いっこう、心の化粧をしない人が多いようです。いや、全然問題にしていない人が少なくないのです。昭憲皇太后さまの御歌に、

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髪かたちつくろうたびにまず思えおのが心のすがたいかにと
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 というのがあります。鏡に向かって化粧する。その時、顔や容姿《かたち》の化粧《たしなみ》をするたびに、必ず心の化粧もしてほしいのです。真の化粧とは、心の化粧です。顔や肌の素地《きじ》は天性《うまれつき》だから、どんなに磨いたところで、しれていますが、しかし心の化粧は、すればするほど美しくなるのです。老若男女を選ばず、磨けばみがくほど、いよいよその光沢《つや》が出てきます。「金剛石《こんごうせき》も磨かずば」で、実をいうと私どもは互いにその金剛石《ダイヤモンド》を一つずつ所有しているのです。しかし肝腎の私たちはそれを知らないでいるのです。だから化粧はおろか、その存在すら忘れているのですから、光るに光れないわけで、まことにもったいないわけです。
 心は鏡[#「心は鏡」は太字] その昔、支那《しな》に神秀《じんしゅう》という有名な坊さんがありました。彼は禅のさとりについて、こういっています。
「身は是れ菩提樹《ぼだいじゅ》、心は明鏡台《めいけいだい》の如し。時々に勤め
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