ですから、死への諦観《あきらめ》は、当然できておらねばならぬわけです。因縁[#「因縁」に傍点]ということくらい、十分に考えておらねばならぬわけです。ところが、事実は全くこれと正反対です。なまじっか学問がある人よりも、かえって学問のない人の方が、あきらめが早いのです。死の覚悟がチャンとついているのです。三合の病いに八石五斗の物思いがなくてすむのです。もちろん、それは決して学問そのものの罪ではありません。学問する人の罪です。
 肚でさとれ[#「肚でさとれ」は太字] ただ頭で学ぶだけで、肚《はら》で覚《さと》らないからです。学者[#「学者」に傍点]であって、覚者[#「覚者」に傍点]でないからです。とかく学者は学んだ智慧に囚われやすいのです。いわゆる智慧負けする人が、学者の中には多いのです。しかし「覚者」は智慧に使われず、かえってその智慧を使います。智慧を材料として、それを自由に用いる人が覚者です。私どもは、少なくとも智慧に使われる人であってはなりません。智慧を使う人でなければならぬのです。智慧を人格の素材として、自由にこれを行使してこそ、学問する価値があるのです。学問中毒に罹っている今日の時代においては、この点よほどお互いに考えねばならぬと存じます。
 たいへん前置きが長くなりましたが、これからお話しするところは、
「三世の諸仏も、般若波羅蜜多《はんにゃはらみた》に依るが故に、阿耨多羅《あのくたら》三|藐《みゃく》三|菩提《ぼだい》を得たもう」
 という一節であります。さて、三世の諸仏ということですが、いったい仏教では三世[#「三世」に傍点]というのは、いうまでもなく過去、現在、未来を指していったものですが、要するに、三世とは「無限の時間」ということなのです。ところで、この三世といつも並べて使用せられることばは、十方ということです。十方とは、東西南北の四方に、東南とか、東北などという四|隅《すみ》、それに上と下とを加えて、十方というのです。つまり「無限の空間」ということです。ひところ、よく世間で「八|紘《こう》一宇」「世界一家」(世界じゅうの人たちが一家族のごとく相|倚《よ》り相|扶《たす》けてゆくこと)という言葉が用いられましたが、八紘というのは四方八方です。世界、宇宙という事です。十方と同じ意味で、無限の空間、涯《はて》しない世界ということです。要するに三世十
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