く考えねばなりません。死を覚悟してやる、死を|賭[#「死を|賭」は太字]《と》して戦う[#「して戦う」は太字]、これくらい世の中に強いものはありません。死を覚悟していない、つまり魂をうちこんでいない仕事は、結局、真剣ではないわけです。死を賭して戦わざるものは、いつも敗者の惨《みじ》めさを味わうものです。「あらゆる日の問題は死ぬことなり」という言葉ほど、厳粛な真剣なことはありません。良寛|和尚《おしょう》が、「死ぬ時には、死んだ方がよろしく候」といったのは、まさしくこの境地です。何事も一生たった一度という「一|期《ご》一|会《え》」の体験《さとり》に生きている、あの菩薩の生活態度は、まさしくこの間の消息を、雄弁に物語っておると思います。
 三合の病いに八石五斗の物思い[#「三合の病いに八石五斗の物思い」は太字] あの名高い白隠禅師の語録の中に、こんな味わうべき言葉が示されています。病と闘いつつ、ついに病を征服した人のことばだけに、なかなか意味ふかいものがあります。
「世に智慧ある人の病中ほど、あさましく、物苦しいことはなきことなるぞや。来し方、行く末のことなども際限なく思い続け、看病人の好悪などをとがめ、旧識同伴の間闊《とおどおしき》を恨み、生前には名聞《みょうもん》の遂げざるを愁《うれ》え、死後は長夜《ちょうや》の苦患《くげん》を恐れ、目を塞《ふさ》ぎて打臥《うちふ》し居たるは、殊勝《しゅしょう》に物静かなれども、胸中騒がしく、心上苦しく、三合の病いに[#「三合の病いに」に傍点]、八石五斗の物思い[#「八石五斗の物思い」に傍点]あるべし」
 と、いかにもその通りで、なまじい学問をした、智慧のある人ほど、よけい[#「よけい」に傍点]に病気を苦にする傾きがあって、容易に病気に安住することはできないのです。どうせこわれものの身体[#「こわれものの身体」は太字]です。おそかれ早かれ、一度は死なねばならぬ、という覚悟ができていそうなものですが、それが実際はできていないのです。いつまでも健康がつづくように思い、いつまでも生きていられるもののように考えているから、いざ病気にでもなると、いらざるよけいな心配までするのです。心配ならよいが心痛するのです。

[#ここから2字下げ]
死ぬことを忘れていてもみんな死に[#「死ぬことを忘れていてもみんな死に」は太字]
[#ここで字下げ終わり
前へ 次へ
全131ページ中99ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高神 覚昇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング