いますが、要するに、私どもの迷いの心、「妄想」「煩悩」を吹き消した「大安楽の境地」をいうのです。「寂滅を以て楽となす」すなわち寂滅為楽《じゃくめついらく》などというといかにも静かに死んでゆくこと、すなわち「往生《おうじょう》する」ことのように思っている人もありますが、これは決して、死んでしまうという意味ではないのです。いったい世間で「往生する」ということを、死ぬことと混同して考えていますが、往生は決して死ぬことではない[#「往生は決して死ぬことではない」は太字]のです。古聖は、
「往生とは往《ゆ》き生まれることだ。仏法は死ぬことを教えるのじゃない。死なぬ法を教える[#「死なぬ法を教える」に傍点]のだ。浄土へ往き生まれることを、教えるのが仏法じゃ」
 といっていますが、ほんとうにその通りです。「往生」ということも、「涅槃に入る」ということも、決して死ぬのじゃなくて、永遠なる「不死の生命[#「不死の生命」は太字]」を得ることなのです。したがって、「往生」することが、成仏《じょうぶつ》すなわち仏[#「仏」に傍点]になることです。仏となることは、つまり無限の生命を得ることなのです。ある仏教信者のお老爺《じい》さんに、「あなたのお歳《とし》は?」と尋ねたところ、老人は「阿弥陀《あみだ》さまと同じ歳です」と答えたので、さらに「では、阿弥陀さまのお歳は?」と、問うたところ、老人は即座に「私とおなじ歳だ」といったという話がありますが、非常に面白いと思います。無限の生命(無量寿)、不死の生命をもった方が、阿弥陀さまです。だから阿弥陀さまと一つになれば、無限の生命を得たことになるのです。したがって、「立往生」とか、とうとう降参して「往生」したなどというのは、要するに、往生に対する認識不足といわねばなりません。ところで『心経』に書いてある「究竟涅槃」とは、どんな意味かというと、それは「|無住処涅槃[#「無住処涅槃」は太字]《むじゅうしょねはん》」という涅槃《さとり》です。「無住処」とは、住処すなわち住する処《ところ》なき涅槃という意味で、他の語でいえば「生死《まよい》に住せず、涅槃《さとり》に住せず」という意味がこの「究竟涅槃」です。
「菩薩は智慧を以ての故に、生死《しょうじ》に住《じゅう》せず、慈悲を以ての故に、涅槃《ねはん》に住せず」
 といっておりますが、これはたしかに味わうべき語
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