こんどは固形体の氷になります。しかしいずれも H2[#「2」は下付き小文字]O です。水素と酸素とが、二と一との割合で化合したものです、水は無自性です、きまった相はありません。縁に従っていろいろ変化します。こうしたような事実は、この複雑なる、われわれの世界には非常に多いのです。あの斜視や乱視や色盲のような見方をして、錯覚や幻覚を起こしている連中は、いずれも皆「顛倒《てんどう》の衆生《しゅじょう》」であります。次に「夢想」とは夢の想《おも》いです。したがってそれは妄想《もうぞう》です。つまり、ないものを、あると思い迷う、今日の言葉でいえば一種の幻覚です。錯覚です。「幽霊の正体見たり枯尾花[#「幽霊の正体見たり枯尾花」は太字]」というのがそれです。幽霊だと思うのは、枯尾花であることを、知らないから起こる一種の幻覚です。よく見れば[#「よく見れば」に傍点]、幽霊ではなくして枯尾花だったのです。で、つまり、「顛倒」も「夢想」も同じことで、要するに、私たちの「妄想」です。ですから、「顛倒夢想を遠離する」ということは、そうした妄想を打破ることです。克服し超越することです。その昔、相模《さがみ》太郎北条時宗は、祖元禅師から「妄想するなかれ」(莫妄想《まくもうぞう》)という一|喝《かつ》を与えられて、いよいよ最後の覚悟をきめたということです。
 究竟の涅槃[#「究竟の涅槃」は太字] 次に「究竟涅槃《くきょうねはん》す」ということですが、これを昔から、一般に「涅槃《ねはん》を究竟《くきょう》す」とよませています。しかし梵語の原典から見ましても、「顛倒《てんどう》を超越して究竟《くきょう》の涅槃《さとり》に入る」という意味になっていますから、これはやっぱり「究竟涅槃す」とよんだ方がよいと思います。ところで究竟ということは、つまり「究極」とか「終極」とか「最後」などという意味で、最終の最上なる涅槃《さとり》が、すなわち「究竟涅槃《くきょうねはん》」です。ところでこの「涅槃《ねはん》」ということですが、これは、世間でいろいろ誤解されているのです。しかし、このまえにもちょっと申し上げたごとく、それは仏教におけるさとり[#「さとり」に傍点]の世界をいったものです。すなわち涅槃の梵語は、ニイルバーナで、ものを「吹き消す」という意味です。で、普通にこれを翻訳して「寂滅」「円滅」「寂静」などといって
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