の人」でありうるのです。まことに、ひっかかりなしに、自由に働きうることは、求めざる人によってのみ可能であるのです。次に『心経』に「※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]礙なきが故に恐怖《くふ》あることなし」とありますが、恐怖《くふ》とは、ものにおじることです。ものに怯《おび》え怖《おそ》れることです。恐ろしいという気持です。つまり不安です。心配です。心の中に、なんの恐れも、憂いも、心配も、苦労もない、というのが、「恐怖あることなし」です。浅草の観音さまへお参りすると、有名な玄岱《げんたい》という人の書いた「|施無畏[#「施無畏」は太字]《せむい》」という額があります。施無畏とは、無畏《むい》を施すということで、元来、仏さまのことを一般に施無畏と申しますが、ここでは観音さまを指《さ》すのです。畏《い》とは恐れるという字です。慈悲そのものの権化《ごんげ》たる観音さまは、愛憐《あいれん》の御手で、私どもを抱きとってくださるから、私どもには、なんの不安も恐れもないのです。だから観音さまのことを、「無畏を施すもの」、すなわち「施無畏」というのです。いったい「施す」ということは、さきほど申し述べました、あの「布施《ふせ》」です。梵語でいえば、ダーナで、あの檀那《だんな》さま、といった時のその「|檀那[#「檀那」は太字]《だんな》」です。だからお寺の信者のことを「檀家《だんか》」といいます。財物をお寺に上げるからです。これに対して、檀家からはお寺のことを「檀那寺《だんなでら》」といいます。「法施」といって、「法を施す」からです。したがって、財物を上げぬ信者は「檀家」ではなく、法を施さぬ寺は「檀那寺」ではないわけです。
 顛倒の世界[#「顛倒の世界」は太字] 次に、「顛倒夢想《てんどうむそう》を遠離《おんり》して、究竟涅槃《くきょうねはん》す」ということですが、普通には、ここに「一切」という字があります。「一|切《さい》顛倒《てんどう》」といっています。ところで「顛倒」とは「すべてのものをさかさまに見る」ことです。無い物を、あるように見るのは顛倒[#「顛倒」に傍点]です。たとえば水はこんなもの、空気はこんなものと局限して、全く性質の違ったものと思うことは、つまり顛倒です。水は温度を加えると、蒸発してガス体の蒸気になります。その蒸気を冷却さすか、または強い圧力を加えると、
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