が真実なのかと疑いをもたれる方があるかも知れません。まことにごもっともなことです。しかしそれはどちらもほんとうです。というのは、前からしばしば申しましたごとく、仏教における智慧と慈悲とは、一つのもののうらおもて[#「うらおもて」に傍点]で、二にして一です。一つのものに対する二つの見方です。ところで、この布施というのはつまり慈悲のことです。ほんとうの慈悲、すなわち布施は、智慧の眼が開いていないものにはできません。大悲は、盲目的な愛でないかぎり、必ず、正しい批判と、厳《おごそ》かな判断と、誤りなき認識、すなわち智慧によらねばなりません。六度の根本、すなわち彼岸へ渡る根本の方法が、布施であり、般若であるといったのは、まさしくそれです。柔和なあの観音さまのお姿、忍辱《にんにく》の衣を身にまとえるあの地蔵さまのお姿を拝むにつけても、それがほんとう[#「ほんとう」に傍点]の自分《おのれ》の相《すがた》であることに気づかねばなりません。私たちのほんとうの心の姿こそ、あの絵像や、木像に象徴されている菩薩の尊容《おすがた》なのです。
和顔愛語ということ[#「和顔愛語ということ」は太字] 今は故人になっていますが、私のかつて教えた学生の一人に、阿部という男がありました。性質は悪いというのではありませんが、いつも人と話す時には、目をいからし[#「目をいからし」に傍点]、口をとがらせて[#「口をとがらせて」に傍点]、ものをいう癖がありました。学生の演説会の時なんか、側《そば》で見ていると、まるで喧嘩《けんか》でもしているような態度です。私はいつもその男に「和顔愛語《わげんあいご》」という、菩薩の態度を話したことです。和顔とは、やさしい和《なごや》かな顔つきです。怒っているような、いかめしい顔つきではなくて、いかにも春風|駘蕩《たいとう》といったような顔つきです。朗らかな、やさしい顔つきといったらよいでしょう。私たちはお互いに些細《ささい》なことに口をとがらし、目をいからす必要はないのです。おだやかに話をすればわかるのです。他人が自分を悪くいうその態度が気にいらぬとて、すぐに感情を害して顔にあらわす、果たしてそれでよいものでしょうか。まことに「わがよきに人の悪《あ》しきのあらばこそ」です。「人の悪しきはわがあしきなり」です。他人を怨《うら》むまえに、まずわが身を省みる必要はないでしょうか。
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