うのがそれです。しかし、お経にはかように菩薩の道として四つの方法が説かれていますが、その四つの方法の根本は結局、慈悲の心です。貪《むさぼ》り求めるこころ、すなわち貪慾《どんよく》の心を離れた慈悲のこころをほかにして、どこにも「菩薩の道」はないのです。
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あわれみをものに施すこころよりほかに仏の姿やはある
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で、あわれみを施す慈悲の心こそ菩薩のこころです。いや、それがそのまま仏陀《ほとけ》の心です。だから「菩薩の|行[#「菩薩の|行」は太字]《ぎょう》」として、仏教には六度、すなわち六|波羅蜜《はらみ》ということが説かれてありますが、その六波羅蜜の最初の行は布施[#「布施」に傍点]です。この布施の行為が母胎となって、他の五つの勝行《しょうぎょう》が生まれるのです。ところで、波羅蜜[#「波羅蜜」に傍点]とは、般若波羅蜜多《はんにゃはらみた》のその波羅蜜で、すでに述べたごとく、それは「彼岸に到《いた》る」ということです。この岸から彼《か》の岸へ渡るのに、六つの行があるというのが、この六波羅蜜、すなわち六度です。布施と持戒と|忍辱[#「布施と持戒と|忍辱」は太字]《にんにく》と|精進[#「精進」は太字]《しょうじん》と|禅定[#「禅定」は太字]《ぜんじょう》と|智慧[#「智慧」は太字]《ちえ》がそれです。布施[#「布施」に傍点]とは、ただ今も申し上げたごとく、貪慾《どんよく》のこころをうち破って、他に憐《あわれ》みを施すことです。持戒とは、規則正しい生活の意味で、道徳的な行為《おこない》です。忍辱《にんにく》とは、堪《こら》え忍ぶで、忍耐です。精進《しょうじん》とは、努め励むことで、全生命をうちこんで努力することです。禅定とは、沈着です。心の落ちつきです。「明鏡止水」という境地です。智慧とは、これまでたびたび申し上げている般若《はんにゃ》の智慧です。ものごとをありのままにハッキリ認識することです。だから、所詮、菩薩の行は、この六度の行を離れて他にはないわけです。
布施と智慧との関係[#「布施と智慧との関係」は太字] ところで、ここで一言申しておきたいことは、最初に私は般若の智慧こそ、彼岸へ渡る唯一の道だといっておきましたが、ここではまた、布施が六度の母胎である、布施こそ六波羅蜜の根本であると申しました。では、いったいどちら
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