傍点]との相違があります。つまり凡夫《ぼんぷ》と菩薩との区別があるわけです。このごろやかましくいわれるデモクラシイ(民主主義)も、こうした人間的自覚をもった人が、出てこないかぎりとうてい確立することはできません。あの十字架にかかったキリスト[#「あの十字架にかかったキリスト」は太字]、一切の人々の罪を償《つぐな》うために、すべての人々の救済《すくい》のために、十字架にかかったとすれば、そのキリストのこころこそ、まさしく菩薩のこころです。十字架を背負うた彼が、その十字架を背負わせた、その人たちの罪の救いを、かえって神に祈っている心もちは、まことに尊くありがたいものです。
 聖書《バイブル》にこういう文句《ことば》があります。「一粒の麦、地におちて死なずば、ただ一つにて終わらん。死なば多くの実を生ずべし」と。キリストは十字架にかかりました。しかしそれによって多くの人々は救われたのであります。キリスト教の是非はともかく、私たちは異教徒という名のもとにいたずらにこれを看過したり、排撃したりすることはできないのです。宗教人の名において[#「宗教人の名において」に傍点]、菩薩の名において、彼を賞讃《しょうさん》し、景仰すべきであると思います。
 菩薩の生活と四摂法[#「菩薩の生活と四摂法」は太字] ところで、仏教ではこの菩薩の生活、すなわちほんとうの人間生活の理想を、四つのカテゴリー(形式)によって示しています。四|摂法《しょうほう》というのがそれです。「摂」とは摂受《しょうじゅ》の意味で、つまり和光|同塵《どうじん》、光を和《やわ》らげて塵《ちり》に同ずること、すなわち一切の人たちを摂《おさ》めとって、菩薩の大道に入らしめる、善巧《たくみ》な四つの方便《てだて》が四摂法です。四つの方便とは、布施《ふせ》と愛語と利行《りぎょう》と同事ということです。布施[#「布施」に傍点]とは、ほどこしで、一切の功徳《くどく》を惜しみなく与えて、他人を救うことです。愛語[#「愛語」に傍点]とは、慈愛のこもった言語《ことば》をもって、他人によびかけることです。利行[#「利行」に傍点]とは、善巧な方便《てだて》をめぐらして、他人の生命を培《つちか》う行為《おこない》です。同事[#「同事」に傍点]とは他人の願い求める仕事を理解して、それを扶《たす》け誘導することです。禍福を分かち、苦楽を共にするとい
前へ 次へ
全131ページ中87ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高神 覚昇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング