、いや無所得にして、はじめて大なる所得があるのです。利益があるのです。無功徳《むくどく》の功徳こそ、真の功徳です。さてこれまで、お話ししてきた『心経』の本文は、皆、私どものお腹をからっぽにするためだったのです。「一切は空《くう》だ」何もかも皆、ないのだ、といって私どもの頭の中を、腹の中を掃除してくれたのです。もう私どもの頭の中はからっぽです。お腹はスッカリ綺麗に掃除ができているのです。「有ると見て、なきは常なり水の月」で、因縁によってできているものは、皆ことごとく水上の月だ。あるように見えて、実はないのじゃといって、今までは一切を否定[#「一切を否定」に傍点]してきたのです。いわゆる「無所得の世界」まで、私どもお互いを、引っぱってきたのです。で、これからいよいよお話しする所は、空腹の前の御馳走です。したがって、これからはどしどし御馳走が、一々滋味と化して私どもの血となり肉となってゆくのです。「菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]《ぼだいさった》の般若波羅蜜多《はんにゃはらみた》に依るが故に、心に※[#「よんがしら/圭」、第4水準2−84−77]礙《けいげ》なし」というのはそれです。さてここで一応ぜひお話ししておきたいことは、「菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]すなわち「菩薩[#「菩薩」は太字]」ということ[#「ということ」は太字]です。いったい大乗仏教[#「大乗仏教」に傍点]というのは、この「菩薩の宗教」ですから、この菩薩の意味がよくわからないと、どうしても大乗[#「大乗」に傍点]ということも理解されないのです。ところで、菩薩のことを、この『心経』には菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51][#「菩提薩※[#「土へん+垂」、第3水準1−15−51]」に傍点]とありますが、これは菩薩の具名《くわしいなまえ》で、昔からこれを翻訳して、「覚有情《かくうじょう》」といっております。覚有情[#「覚有情」に傍点]とは覚《さと》れる人という意味で、人生に目醒《めざ》めた人のことです。ただし自分|独《ひと》りが目醒めているのではなく、他人をも目醒めさせんとする人です。だから、菩薩とは、自覚せんとする人であり[#「自覚せんとする人であり」に傍点]、自覚せしめんとする人です[#「自覚せしめんとする人です」に傍点]。「人多き人の中にも人ぞなき
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