すことが嫌《きら》いですから、どんな方が見えても、すぐ書斎へ通すのです。その時いちばん困ることは、何か調べものでもしている時には、書斎が書物でいっぱいになっているので、狼狽《あわて》てそこらを片づけてからお客に通っていただいたのです。ところが平生《ふだん》は、割合に片づいているので、いつ何時お客があっても、少しもあわてずにすむのです。ちょうど、そのように、平素心の中が、余計な、いらざる妄想《もうぞう》や、執着という垢《あか》でいっぱいになっていると、いざという場合に臨んで、うろたえ騒がなくてはなりません。御婦人方でもそうです。身だしなみ[#「身だしなみ」は太字]が、チャンとできていると、何時来客があっても、お客を待たせておいて、急いで衣物《きもの》を着かえたり、髪や顔の手入れをなさらずとも、余裕|綽々《しゃくしゃく》として、応接することができるのです。化粧の必要はそこにあるのです。白粉《おしろい》を塗ったり、香水でもつけなければ、化粧でないと思っている方もありましょうが、それは認識不足です。身だしなみをすることが化粧です。だが、髪や形の化粧をするときには、いつも心の化粧をしてほしいものです。心をチャンと掃除して、塵《ちり》や垢《あか》のないようにしておきたいものです。けだし「無所得」の境地というのは、心を綺麗《きれい》さっぱりと片づけておくことです。化粧しておくことです。整頓《せいとん》している座敷、それが無所得の世界だと思えばよいでしょう。なんのこだわりもない純真|無垢《むく》な心の状態が、つまり無所得の世界です。しかも無所得にしてはじめて一切を入れる、大きい所得があるわけです。
虚往実帰[#「虚往実帰」は太字] 古人は、「虚《きょ》にして往《ゆ》いて、実にして帰る」すなわち虚往実帰《きょおうじっき》ということをいっていますが、他家へ御馳走《ごちそう》になりに行く場合でも、お腹《なか》がいっぱいだと、たとい、どんなおいしい御馳走をいただいても、少しもおいしくありません。だが、お腹を空《す》かして行けば、すなわち虚《きょ》にして往けば、どんなにまずく[#「まずく」に傍点]とも、おいしくいただいて帰れるのです。空腹には決してまずいものはないのです。無所得にしてはじめて所得があるのです[#「無所得にしてはじめて所得があるのです」に傍点]。無所得こそ、真の最も大きい所得
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