」は太字]、食物の問題、胃袋の問題が、きわめて重要な意味をもってきます。まことに無理もありません。だから今日では個人的にも、社会的にも、国際的にも、すべては、「損得」、「利害」といったような、打算的な考えで、動いているようです。一文でも「損」をせぬように、一文でも「得」をするように、損にも得にもならぬものには、なるべく手を出さぬように、関係しないように、というふうです。それが現代的なものの考え方のようです。だが、それで果たしてよいものでしょうか。「引き合わぬ」「勘定にあわぬ」というような損得の考え[#「損得の考え」は太字]だけで、人間は暮らせるものでしょうか。中国人は金《かね》に汚《きたな》いというが、日本人は汚くないでしょうか。経済の問題、もちろん必要です。この地上に、人間の生活が営まれるかぎり、私どもは、とうてい「経済」上の利害得失と無関心にはおられません。しかしです。経済が、決して生活の全部とは申されません。経済だけで、ほんとうに経済だけで、世の中のすべてが生きているのではありません。なるほど「人間は食う動物なり[#「人間は食う動物なり」は太字]」ということは事実でしょう。しかし食うだけで、人間は決して満足しているものではありません。食糧飢餓の今日、人はあまりに食生活のために貴い人間の霊性を見失っているような気がいたします。敗戦後の日本人は、ひたすら食物を探《さが》し求める犬や猫《ねこ》のような存在になったようです。しかし、新しい日本を建設し、創造するには、お互いはとくと考え直さねばなりません。それは物質上の破産を、いかにもそれが人間の破産のごとく考えて、心の破産の重大なることに気づかないということです。「物の貧困[#「物の貧困」は太字]」よりも恐ろしいのは「心の貧困[#「心の貧困」は太字]」です。「本来は無一物なり雪だるま」たとい戦災で物を喪失しても、もともと裸で生まれてきたのですもの。将棋の「金」から「歩《ふ》」に帰っただけのことです。歩は当然また金になれるのです。
恐ろしいのは心の喪失です。心の貧困です。いったん心を失ったものは、たやすくとり戻《もど》すことはできないのです。私どもは外面的に、貧困防止の方法を考えねばならぬと同時に、いやそれ以上に内面的に、心の貧困を克服すべく努めねばなりません。「人間は食う動物だ」といった、かのフォイエルバッハは、また
前へ
次へ
全131ページ中82ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高神 覚昇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング