ちり》を払い、垢《あか》を除かん」
正直な愚者周利槃特は、真面目《まじめ》にこの一句を唱えつつ考えました。多くの坊さんたちの鞋履《はきもの》を掃除しつつ、彼は懸命にこの一句を思索しました。かくて、永い年月を経た後、皆から愚者と冷笑された周利槃特は、ついに自分《おのれ》の心の垢、こころの塵を除くことができました。煩悩《まよい》の塵埃《けがれ》を、スッカリ掃除することができました。そして終《つい》には「神通説法第一の阿羅漢《あらかん》」とまでなったのです。ある日のこと、釈尊は大衆を前にして、こういわれたのです。
「悟りを開くということは、決してたくさんなことをおぼえるということではない。たといわずかなことでも、小さな一つのことでも、それに徹底しさえすればよいのである。見よ、周利槃特は、箒《ほうき》で掃除することに徹底して、ついに悟りを開いたではないか」
と、まことに、釈尊のこの言葉こそ、われらの心して味わうべき言葉です。「つまらぬというは小さき智慧袋」、私どもはこの一句[#「一句」に傍点]を改めて見直す必要があると存じます。
無所得の天地[#「無所得の天地」は太字] さてこれからお話ししようと思うところは、「智もなく、亦《また》得もなし、無所得を以ての故に」という一句であります。言葉は簡単ですが、その詮《あらわ》す所の意味に至ってはまことにふかいものがあるのです。しかし、手っ取り早く、その意味を申し上げれば、つまりこうです。
「およそ一切の万物は、すべて皆『空なる状態』にあるのだ。『五|蘊《うん》』もない、『十二|処《しょ》』もない、『十八界』もない、『十二因縁』もない、『四|諦《たい》』もないと、聞いてみれば、なるほど『一切は空だ』ということがわかる。しかも、その空なりと悟ることが、般若の智慧[#「般若の智慧」に傍点]を体得したことだ、と思って、すぐに私どもは、その智慧に囚われてしまうのだ。しかし、元来そんな智慧というものも、もとよりあろうはずがないのだ。いや智慧ばかりではない。そういう体験《さとり》を得たならば、何かきっと『所得』がある、いやありがたい利益や功徳《くどく》でもあろうなどと、思う人があるかも知れぬが、それも結局はない[#「ない」に傍点]のだ」というのが、「無[#レ]智亦無[#レ]得」ということです。
こうなると、皆さんは、いわゆる迷宮[#「迷宮
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