は即ち涅槃です。しかも「永遠に立脚して、刹那《せつな》に努力する人」こそ、はじめてかかる境地を、ほんとうに味わうことができるのであります。
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第七講 四つの正見《まなこ》
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無[#(シ)][#二]苦集滅道[#(モ)][#一]。
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 あきらめの世界[#「あきらめの世界」は太字] いったい人間というものは妙なもので、口でこそりっぱにあきらめた[#「あきらめた」に傍点]といっておっても、その実、なかなか心では容易にあきらめきれないものです。他人の事だと、「なんだ、もう過ぎたことじゃないか、スッパリ諦《あきら》めてしまえ」だとか、「なんという君は諦めの悪い人間だ」ナンテ冷笑しますが、いざ自分の事となると、諦めたとは思っても、なかなか諦めきれないのです。竹を割ったようにスッパリとは、どうしたって諦められないのです。「あきらめましたよ、どう諦めた、諦らめられぬとあきらめた」という俗謡がありますが、諦められぬと諦めた[#「諦められぬと諦めた」に傍点]、というのが、あるいはほんとうの人情かも知れません。諦めたようで、諦められぬのが、また諦められぬようで、実はいつともなしに諦めているのが、私ども人間お互いの気持だと存じます。「散ればこそいとど桜はめでたけれ」と聞いて、なるほどもっともだと感じます。生まれた以上、死なねばならぬ、死は生によって来る、と聞けば、なるほど、全くその通りだ、と思います。「諸行無常」だの、「会者定離《えしゃじょうり》」だのと聞けば、なるほどそれに違いないとうなずかれます。しかしです、そうは思いつつも、やはり一面には、「そうじゃけれども、そうじゃけれども」という感じが、どこからともなく湧《わ》いてくるのです。他人に向かっては誰しも、いかにも自分が、さとったような、あきらめたような口吻《くちぶり》で、裁きます、批判します。娘を亡《な》くした母親を慰め顔に、「まあ極楽へ嫁にやったつもりで……」といったところで、母親にしてみれば、それこそ「おもやすめども、おもやすめども」です。なかなか容易にはあきらめきれないのです。
 なぜ自分の子供だけが、なにゆえにわが娘だけが、という感じが先行して、「人間は死ぬ動物」だナンテ冷然とすましてはおれないのです。だが、それが人
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