ました。すると不思議にも「オーイ」という神さまのお声が聞こえてきたのです。「さては天上に神さまがいられる」と思いつつ、彼はなおもよく耳をすましていると、豈《あ》に図《はか》らんや、神の声は高い天上ではなくて[#「神の声は高い天上ではなくて」は太字]、低い地上から聞こえてきたのです[#「低い地上から聞こえてきたのです」は太字]。しかも多くの人たちが群集《ぐんしゅう》し、雑沓《ざっとう》している中から神の声は聞こえてきたのです。もちろんそれは一つの寓話《ファブル》でしかありません。しかしです。神の声はあった、だが、その声は、高い天上にはなくて、低い地上にあった。しかも、多くの人々の雑沓している、その群集の中にあったということは、そこに、ふかき「何物か《エトワス》」を物語っていると存じます。キリストは「天国を地上」にといっています。少なくともほんとうの宗教は、神の宗教ではなくて、人間の宗教です。天上の宗教ではなくて、地上の宗教でなければなりません。まことに、宗教のアルファもオメガアも、始めも、終わりも、結局は人間です。「迷える人間」より「悟れる人間」へ、「眠れる人間」より「目覚めた人間へ」、そこに宗教の眼目があるのです。けだし「仏法|遥《はるか》にあらず」です。「心中にして即《すなわ》ち近し」です。「真如《しんにょ》外《ほか》に非《あら》ず」です。「身を捨て何処《いずこ》にか求めん」です。少なくとも、私ども人間の生活を無視して、どこに宗教がありましょうか。「なにゆえに宗教が必要なのだ」という質問は、つまりなにゆえに、「われらは生きねばならぬか[#「われらは生きねばならぬか」は太字]」という質問と同一です。宗教の必要を認めない人は、人間として生きる権利を抛棄《ほうき》した人です。人間としての、尊き矜持《ほこり》は「生きる」ということを、考えるところにあるのです。しかも、一度でも「いかに生くべきか」ということを、真剣に考えたとき、それはもはやすでに「宗教の世界」にタッチしているのです。宗教に入っているのです。いや、宗教を離れては、どうしても「生きる」ということのほんとうの意味を、把《つか》むことはできないのです。
 惑と業と苦の連鎖[#「惑と業と苦の連鎖」は太字] 話がつい横道にそれました。さてこの十二因縁ということですが、これについては、昔からいろいろとめんどうな、むずかし
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