い議論もありますが、こういったらよいかと存じます。いったい、仏教では、私どもの生活は、この現在の一世だけではなく、過去と、現在と、未来との三世に亙《わた》って、持続するというのです。「三|世《ぜ》輪廻《りんね》」というのはそれです。ところがその生活の過程は、結局、惑と、業《ごう》と、苦の関係だというのです。いわゆる「惑業苦の三道」というのはそれです。いうまでもなく惑とは、「迷惑」と熟するその惑で、無明、すなわち無知です。智慧《ちえ》が病にかかっている愚痴です。ものの道理をハッキリ知らないから、惑が起こるのです。無知の迷いが生ずるのです。下世話に「一杯、人、酒をのみ、二杯、酒、酒をのみ、三杯、酒、人を飲む」と申しますが、飲み友だちをもった人には、この辺の呼吸がよくおわかりでしょうが、飲酒の害をよく知りつつも、「憂いを払う玉箒《たまぼうき》」などと、酒杯《さかずき》を手にします。一杯やりますと、もうたまりません。陶然とした気持になって、飲酒の害も、どこへやらふっ飛んでしまって、酒のいけない人を、かえって馬鹿《ばか》にするようになります。「痛狂は酔わざるを笑い、酷睡《こくすい》は覚者を嘲《あざけ》る」と弘法大師もいっていられますが、狂酔の人からみると、酒をのまぬ連中がかえって馬鹿に見えるのです。しかし、それは所詮、酒飲みの錯覚です。いうところの「惑」です。だが、メートルが上がると、もうたまりません。一たび、この「惑」が生ずると、酒、酒を飲むようになって、それこそだらしないことをしでかすのです。それが所詮「業《ごう》」です。はては、他人さまにも迷惑をかけ、自己《おのれ》も苦しむのです。経済上の苦しみはいうまでもありません。身体も精神《こころ》も、苦しめるようになるのです。これがいわゆる「苦」です。三杯、酒、人を飲むというようになると、もう恥も外聞もありません。だが、いったん酔いがさめると、それこそしみじみと酒の害毒を痛感します。もう再び酒杯などは手にすまいとまで思います。しかし、それもほんの束《つか》の間です。アルコール中毒に罹《かか》ったものは、また何かの機会に杯を手にします。そして飲んだが最後、またいろいろと、だらしのないことをしでかしたすえは、やっぱり自分で自分を苦しめているのです。かくて飲酒家は、断然、禁酒しないかぎり一生いつまでも同じことを、何遍もくり返しているの
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