がごとく、主観的にも、宇宙の真理を語る所の、智慧《ちえ》そのものもまた空だ、というのが、「無明もない」、「老死もない」ということ、すなわち十二因縁もまた空だというのがそれです。ところで、この「十二因縁」の一々についての、詳しい説明は、かえって煩瑣《はんさ》ですし、またここではその必要を認めませんので省略しておきますが、ただここで、ぜひとも注意すべき大切なことは、「十二」という数字よりも、むしろ「因縁」という二字が大事だということです。すなわち十二という数が、必ずしも特別に重要な位置を占めるものではなくて、「因縁」ということが必要なのです。「因縁」ということ、因縁の内容をば、十二の形式によって説明したものが、この「十二因縁」でありまして、これは結局、「因縁」という一語につきるわけです。したがって、開けば十二、合すれば因縁の一つというわけです。
 因縁の体験[#「因縁の体験」は太字] さてこの因縁が、どんなに重要な意味をもっている語《ことば》であるかは、すでに、しばしば反覆《くりかえ》し説いてまいりましたが、要するに、縦から見ても横から見ても[#「縦から見ても横から見ても」に傍点]、内から見ても[#「内から見ても」に傍点]、外から見ても[#「外から見ても」に傍点]、「仏教の根本思想」は、所詮この[#「所詮この」に傍点]「因縁[#「因縁」に傍点]」の二字[#「二字」に傍点]につきるのです。もちつ[#「もちつ」に傍点]、もたれつ[#「もたれつ」に傍点]という「相対|依存《いぞん》」の関係も、万物は移り変わるという「万物流転」の原理も、ことごとくみなこの「因縁」という母胎から生まれてくる真理であることは、すでに述べたとおりです。かかるがゆえに、人間の子釈尊が、仏となったことも、実は、この因縁の自覚にあったのです。しかもこの因縁の法を自覚した釈尊、仏となった釈尊が、その因縁の道理をば、自己の体験を通じて「教え」として説いたものが、すなわち仏教です。したがって仏教は、「仏陀《ぶっだ》の教え」とはいうものの、仏陀は自覚せる人間ですから、所詮、仏教は人間の教えです。神の宗教[#「神の宗教」に傍点]ではなくて、人間の宗教です。天上の宗教ではなくて、地上の宗教です。昔あるクリスチャンが、神さまは天上にいられると思って、ある日のこと、高い塔の上に登って、「神さまア、神さまア」と、大声で叫び
前へ 次へ
全131ページ中53ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高神 覚昇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング