ように、「この頃は毎朝、お宅の先生のラジオ放送で、空《くう》だの、無だのというような話を聞かされているので、損をした日でも、今までと違ってあんまり苦にしなくなりました」といって笑っていたということですが、たとい、空のもつ、ふかい味わいが把《つか》めなくても、せめて「裸にて生まれて来たになに不足」といったような、裸一貫の自分をときおり味わってみることも、また必要かとおもうのであります。その昔幕末のころ、盛んに廃仏棄釈《はいぶつきしゃく》をやった水戸の殿様に、ある禅寺の和尚《おしょう》さんが、
「君は僅《わず》かに是《こ》れ三十五万石、我れは是れ即《すなわ》ち三界|無庵《むあん》の人」
といったという話がありますが、あなたはたった三十五万石[#「たった三十五万石」は太字]だ、私は「三界無庵の人」だといった、その心持には味わうべき貴いものがあるかと存じます。おもうに三界無庵[#「無庵」に傍点]の人こそ、その実、いたるところに家をもつ三界有庵[#「三界有庵」に傍点]の人です。「無一物中無尽蔵」です。そこには、花もあれば、月もあります。私どもは、般若の「空」がもっているほんとうのもち味をかみしめつつ、いたずらにくよくよせずして、ゆったりと落ちついた気分で、お互いの人生を、社会を、広く、深く、味わってゆきたいものです。
さてこれからお話ししようとする所は、
「無明《むみょう》もなく、また無明の尽くることもなく、乃至《ないし》、老死もなく、また老死の尽くることもなし」
という一節であります。すでに私は「仏教の世界観」を契機《きっかけ》として、それによって「一切は空なり」ということをお話ししたのですが、これからは「仏教の人生観[#「仏教の人生観」は太字]」の上から、「一切は空なり」ということをお話しするわけであります。ところで最初の所は、有名な「十二縁」の問題を取り扱っているのですが、『心経』には「十二因縁」の一々の名前はなくて、ただ最初の「無明《むみょう》」と、最後の「老死」とを挙げてあるのみで、その中間は、「乃至」という文字でもって省略してあるのです。そして「無明もなく、無明の尽くることもなく、老死もなく、老死の尽くることもなし」とて、十二因縁の空なることを説いてあるのですが、いったい般若の真空《しんぐう》の上よりいえば、客観的に宇宙の森羅万象《すべてのもの》が空であった
前へ
次へ
全131ページ中52ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高神 覚昇 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング