ものではなかった。サン・ゼルマン伯の如きは、齢《よわい》二千歳でキリストを見たことがあるなどと豪語したものである。嘗て、ある人が、彼の従僕に向って、御主人は本当にそんなに年を取って居られるのですかと問うと、従僕はすました顔をして、
「さあ、よく存じません。私が御世話になってから、まだ、たった三百年にしかなりませんから」
 と、答えた。誠にこの主にしてこの従ありといわざるを得ない。これに較べると、百二十五歳まで生きるなどという法螺は、何でもないことになってしまう。而も、彼等のかような大法螺が、実際一部の人々からは真面目に受け容れられて居たのであるから、彼等の得意や思うべしである。
 錬金詐欺はあながち西洋にのみ限られたものではない。「煉丹《れんたん》」の盛んであった支那には当然行われて然るべきものである。『昼夜用心記《ちゅうやようじんき》』の中にある、細工師が本当の金をもって行って、慾の深い両替屋に見せ、自分が作った贋金だと欺いて、両替屋をそそのかし、沢山の資金を出させてそれを奪う話がある。両替屋は詐欺だったと悟っても、不正な動機で出した金であるから訴える訳にも行かず、泣き寝入りになった
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