したので、令嬢は遠藤博士の書斎へ私たちを案内して顕微鏡を出してくれました。令嬢が去ると、
「兄さん、まずこの先生の指の爪の間についていた毛を顕微鏡にかけてください」
と俊夫君が申しましたので、私は、さっそく板ガラスにその毛を載せて顕微鏡下に置きました。見ると図に示すごとき土筆《つくし》のような形をした毛でして、私は今まで一度もこんな毛を見たことがありません。
[#毛の顕微鏡下の図(fig45957_01.png)入る]
「俊夫君、僕には分からぬ、見てくれ」
と私は申しました。
俊夫君はしばらく見ていましたが、やがてにこりと笑いました。
「分かったかい?」
と私は聞きました。
「分かったとも、蝙蝠《こうもり》の毛だよ※[#感嘆符二つ、1−8−75]」
「え? 蝙蝠?」
小田刑事と私は思わずいっしょに叫びました。死骸の手に蝙蝠の毛※[#感嘆符二つ、1−8−75] さて、これは何事を意味するでしょう?
怪しい電話
俊夫君は、さらに私に向かって遠藤博士の死体から抜き取った髭と、ベッドの上に落ちていた毛とを、顕微鏡にかけてくれと申しました。
[#二本の毛の顕微鏡下の図(fig45957_02.png)入る]
私は二本の毛を出して顕微鏡の下で見ますと、死体から抜き取った方は図のAに示してあるごとく、毛根がついていて、尖端すなわち遊離端は木の枝のように三つ四つに割れておりましたが、ベッドの上にあった方は、長さはほとんど同じですが、図のBに示してあるごとく、両端とも、鋏《はさみ》で切った痕《あと》がありました。
俊夫君は、顕微鏡をのぞいて、満足げに言いました。
「兄さん、ベッドの上にあったのは付け髭の毛だよ」
「え? 付け髭?」
と私は驚いて尋ねました。
「そうだよ。両端を鋏で切った毛は生きた人間には生えていないよ。……さあ、これから風呂桶についていた血痕を検《しら》べてくれ、人間の血だと分かればよい」
血痕が人間の血であるか否かを検べるには、血痕の中の赤血球の形を検べても分かりますが、それよりも確かな方法は、血痕を食塩水にとかしてそれと「沈澱素」というものを混ぜ合わせ沈澱が起こるか否かを見るのです。
沈澱素というのは人間の血をたびたび兎《うさぎ》に注射しますと、兎の血液の中に、人間の血と混じると白い沈澱を起こすものが生じますから、その兎の血を取って、血清を分け、腐らぬようにガラス管の中へ保存したものです。
私はまず、ガラスの皿の上に、暖めた食塩水を少し入れ、その中へ俊夫君が削り取ってきた板の血痕を、細いガラス棒をもってとかし込みました。それから、携えてきた沈澱素を取りだし、その少量を細い試験管に配り入れ、およそ十五分の後、その沈澱素の中へ、血痕をとかした液を加えますと、見る間に白い沈澱があらわれました。
これだけの実験では、まだ人間の血だと断言することができません。というのは、人間に近い動物すなわち猿の血痕でも同じように沈澱を起こすからです。けれど人間の血か猿の血かを区別することは、うちの実験室へ帰ってからでなくては行い難いのです。この場合、風呂場に猿の血があったとは考えにくいですから、私は人間の血だといっても差し支えないと思いました。
俊夫君は、私が以上試験をしている間、書斎の中を隅から隅まで捜しました。机の引き出しをあけて中をかきまわしたり、本棚の書物を取りだしてふるってみたりしました。最後に机の脇の本箱の横側にかけてあった丸善の『日めくり暦』に目をつけ、何思ったかそれを取りあげて熱心に撥繰《はぐ》っていましたが、やがて、「あった、あった」と叫びました。
あまりに、俊夫君の声が大きかったので、私のそばに立っていたPのおじさん、すなわち小田刑事はびっくりして尋ねました。
「何があったんだ? 俊夫君」
「遠藤博士の寿命を縮めたものです」
「何だい?」
「毒瓦斯《どくガス》の秘密ですよ」
と俊夫君は得意げに言いました。
「遠藤先生を殺した犯人は、先生の発見された秘密を握ろうと思って、この書斎の中を随分さがしたらしいです。けれど、さすがに先生は、金庫の中や、机の引き出しや、書物の中に隠すようなヘマなことはされなかったんです。
先生は丸善のこの『日めくり暦』の十二月の下旬のところへ、四五枚にわたって、毒瓦斯製造法の秘密を書いておかれたんです。暦は毎年十二月の末に送ってくるものですから、先生は、新しい暦が到着したらまた書きかえるつもりだったのでしょう。毎日めくり取られる暦の中に、大秘密が書いてあるなんて、誰だって考えやしません。そこが遠藤先生のえらいところです。だからとうとう犯人は、これをよう見つけなかったんです」
こう言って、俊夫君は『日めくり暦』をポケットの中に入れました。
「この暦はしばらく僕が
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