していた斎藤さんに、兄を起こして連れてきてくれと申したそうでございます。兄が行きますと、父は薄暗い室に蒲団に顔をかくして寝ておりましたそうですが、斎藤さんを寝させてから、二人きりになると、ろくに兄の顔も見ないで、兄に向かって荒い言葉を使ったそうです。
 すると兄もそれに対して言い争ったのだそうですが、およそ十分ばかりして、別に話の要領を得ずに再び自分の居間へ帰って寝たそうです。ところが今朝父は手拭《てぬぐ》いで首を絞められて冷たくなっておりまして、しかも、その手拭いには、兄が滞在していた須磨の××旅館の文字がついておりましたので、警視庁から来られた刑事は、兄を嫌疑者として拘引してゆかれました」
 ここまで語って令嬢は手巾《ハンカチーフ》でそっと顔を拭《ぬぐ》いました。
「手拭いのことを、兄さんは何と仰いました」
 と俊夫君は尋ねました。
「兄はどこで落としたか覚えがないと申しました」
「斎藤さんはいつからお宅へ来ましたか」
「半年ばかり前からですが、父はたいへん気に入っておりました」
「斎藤さんは今、どこにおりますか」
「証人として、兄といっしょに、警視庁へゆきました」
「先生の死骸は?」
「大学の法医学教室に運ばれました」
「お宅に顕微鏡はありますか」
「父の使っていたのがあります」
「それではまず先生の死骸を見せていただいて、お宅へ伺います」

 令嬢が帰るとすぐ、俊夫君は警視庁へ電話をかけて、「Pのおじさん」すなわち小田刑事を呼びだしました。遠藤博士の事件は小田刑事の係ではなかったが、小田刑事の取り計らいで、博士の死骸を見せてもらうことになりました。血液検査の道具と例の探偵鞄とを持って、私たち二人が法医学教室へ行くと、小田刑事は先へ来て待っていてくれました。
 博士の死骸は午後解剖に付せられるべく、解剖室に白布《しろぬの》で覆われてありました。俊夫君は白布を取って一礼してから身体《からだ》の諸方を手で撫でまわしました。首には深いくびれ痕《あと》があって、右の鼻の孔の入口には少しばかりの血の流れた跡がついていました。
 やがて何思ったか、俊夫君はポケットから物差しを出して先生の髭《ひげ》の長さを計りかけました。先生の口髭は立派な漆黒の八の字で、延びるだけ延ばしてありました。顎《あご》から頬へかけての鬚髯《ひげ》はありませんが、病気中は剃らなかったと見えて、一分《いちぶ》に足らぬ黒い濃い毛が密生しておりました。俊夫君はその短い毛を熱心に計って、その結果を手帳の中へ書き加えました。それから俊夫君は八の字髭を軽く引っ張って、二三本を抜き、それを丁寧に保存しました。
 髭の検査が終わると、俊夫君は手の指を一本一本熱心に調べましたが、ついに右の人差し指の爪の間から細い細い毛を一二本ピンセットでつまみだして、同じように保存しました。
「これでよろしい」
 と俊夫君は満足げな顔をして申しました。
 小田刑事は俊夫君の探偵ぶりを見るのが好きですから、私たちといっしょに途中で昼飯《ひるめし》を認《したた》めて巣鴨の博士邸さして行きました。
 博士邸に着くなり、俊夫君は、家《うち》の周囲を一めぐりしてこようといって、先になって歩きました。勝手口のところに、何に使ったのか、たくさん雪を取った跡がありました。俊夫君はそれをじっと眺めていましたが、やがて歩きだし、一まわりして玄関に来ると、家《うち》の中からは令嬢が出迎えてくださいました。
「先生の寝室へ案内してください」
 と俊夫君は令嬢に申しました。
 寝室にはベッドが置かれて、白布《しろぬの》に包まれた蒲団が掛けてありましたが、俊夫君はそれを取り除いて、敷布の上を熱心に探しました。そして枕の下から一本の毛を拾いあげて保存しました。それからベッドの下や、寝室のあちらこちらを検《しら》べまわりましたが、別に、これという発見はないようでした。
「湯殿へ案内してください」
 と俊夫君はとつぜん申しました。私たちは何のことかと顔を見合わせましたが、令嬢は黙って先へ立ってゆきました。
「風呂をわかすのは婆やさんですか?」
 と俊夫君が聞きました。
「いえ、婆やは年寄りですから、風呂は斎藤さんの受け持ちです」
「婆やさんは、そんなに年寄りですか」
「耳も遠く、目もよく見えぬのですが、長年忠実に仕えてきてくれましたから使っております」
 と令嬢は答えた。
 湯殿は二坪ばかりの広さで、隅の方に三尺四方位の浴槽が備えつけてありましたが、水で濡れておりました。俊夫君は熱心に探した結果、浴槽の外側の、ちょっと人目につきにくい所に、赤黒い小さい斑点をたった一つ見つけましたので、令嬢に頼んで、その部分の木を斑点もろとも削らせてもらいました。
 湯殿の検査が終わってから、俊夫君は令嬢に向かって顕微鏡を貸してくださいと頼みま
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