髭の謎
小酒井不木

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)入口の扉《ドア》を

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(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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   博士の死

 それは寒い寒い一月十七日の朝のことです。四五日前に、近年にない大雪が降ってから、毎日曇り空が続き、今日もまた、ちらちら白いものが降っております。
 塚原俊夫君と私とは、朝飯をすましてから、事務室兼実験室で、暖炉を囲んで色々の話をしておりました。と、十時頃、入口の扉《ドア》を叩く音がしましたので、私が開けてみると、二十歳ばかりの美しいお嬢さんが、腫《は》れあがった瞼《まぶた》をして心配そうな様子で立っておりました。
「塚原俊夫さんはお見えになりますか?」
 とお嬢さんは小さい名刺を私に渡しました。
「お願いがあって来ましたとおっしゃってください」
 俊夫君は私の渡した名刺を見て、
「さあ、どうぞお入りください」
 と言いました。その名刺には「遠藤雪子」と書かれてありました。
 やがてお嬢さんは俊夫君と卓子《テーブル》に向かいあって腰かけました。
「ご承知かもしれませんが、私が遠藤信一の娘でございます」
「ああ、遠藤先生のお嬢さんですか、先生は相変わらずご研究でございますか?」
 と俊夫君は言いました。
 令嬢は急に悲しそうな顔になって、
「実は父が昨晩亡くなったのでございます」
「え?」
 と俊夫君はびっくりして飛びあがりました。
「それは本当ですか?」
「はあ、それも誰かに殺されたのでございます」
 俊夫君はますます驚きました。遠藤先生というのは東大教授の遠藤工学博士のことで、博士の発見された毒瓦斯《どくガス》は、従来発見されたどの毒瓦斯よりも飛び離れて強力で、その製法は国家の秘密となっているので、その秘密を奪うために欧米諸国から間諜《スパイ》が入り込んでいるとさえ評判されているのです。
 しかし、その製法を書いた紙片《かみきれ》は大学の教室にかくしてあるのか、自宅にあるのか、博士の他に誰一人知るものはなかったのです。で、いま博士の令嬢から博士の変死を聞いた私は、博士が毒瓦斯の秘密を奪おうとする間諜《スパイ》のために殺されたのではないかと思ったのです。
 俊夫君も同じことを考えたと見えて、
「やっぱり、噂に高い間諜《スパイ》の仕業《しわざ》ですか?」
 と尋ねました。
「いいえ、私の兄が犯人として警察へ連れてゆかれたのでございます。しかし兄はけっして父を殺すような人間ではありません。ですから、俊夫さんにこの事件の探偵をしていただきたいと思って参ったのでございます」
「どうか事情を詳しく話してください」

 令嬢の話によると、遠藤博士は生来短気な人であったが、五年前に夫人が亡くなられてからはいっそう気が短くなられたのだそうです。令息の信清氏は、今年二十四歳の青年であるが、父博士とは性格がまったく違って文学好きであり、事々に博士と意見が衝突して、この三年間は、健康を害してもいたので須磨の××旅館に養生かたがた滞在して、小説などを書いて暮らし、その間一度も家《うち》へ帰ってこなかったのだそうです。
 ところが今から六日前、すなわち一月十一日の晩、博士はある会合から帰ると、流行性感冒にかかって発熱されたそうです。博士は医者にかかることが嫌いで、いつも自分の診断で薬を飲まれたそうです。この四月には停年で大学をやめられることになっていて、近頃はずいぶん気が弱くなっておられたのであるが、病気のために急にさびしくなったためか、十二日になって話しておきたいことがあるから電報で信清を呼び寄せてくれと言われたそうです。
 そこで令嬢はその日と十三日と、二度も兄さんへ電報を打ったところが、兄さんからは帰るのが嫌だという返事がきたそうです。すると博士は令嬢に向かって、須磨まで行って連れてこいと言われたので、令嬢は書生の斎藤と婆やとに留守を頼んで、十三日の夜出発し、二日もかかって兄さんを説伏《せっぷく》し、昨日《きのう》の朝早く二人で須磨を立って、昨夜一時頃帰宅されたのだそうです。
「ところが昨晩帰りましたら、父はどうしたわけかたいへん怒って、私たちを病室へ入れてくれませんでした。斎藤さんが出てきて、明日の朝先生の機嫌のよい時お会いになった方がよいでしょうと申しましたので、私と兄とは別々の室《へや》に寝ました。私は旅の疲れでぐっすり眠りまして、今朝《けさ》婆やが、父の殺されたのを知らせてくれるまで何も知らずにおりました」
 令嬢はここで言葉を切り、俊夫君の顔を見つめて、さらに言葉を続けました。
「事情を聞いてみると、何でも父は昨夜一時頃に、その時まで看護
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