借りておきます。これで犯人を捕まえるのですから、うっかり他人《ひと》に話してはいけませんよ。……時に兄さん、血痕の検査はどうなった?」
 俊夫君は試験管の中の白い沈澱を見て言いました。
「やっぱり、人間の血だね。よし、兄さんちょっとお嬢さんに来てもらってくれ」
 雪子嬢が書斎に入るなり、俊夫君は尋ねました。
「大学はいつから始まるはずでしたか?」
「今月の二十一日からです」
「休み中に先生は学校へお行きになりましたか?」
「いいえ、家《うち》に閉じこもっていました」
「昨晩あなたが須磨からお帰りになったとき、先生のそばへお行きになりましたか?」
「いいえ、機嫌の悪い時はかえって怒らせるようなものですから、寝室の入口に立っていました」
「寝室は薄暗かったとおっしゃいましたね?」
「父は明るい所で寝るのが嫌いでした」
「先生の声はいつもと違っていませんでしたか?」
「少しかすれていましたが、病気のせいでしたでしょう」
「先生は毎日顔をお剃りになりましたか?」
「剃るのは嫌いな方でした」
「最近には、いつお剃りでしたでしょうか」
「寝ついた十一日の朝です。その晩、会があったので、いやいやながら剃りました」
「風呂はいつおたてになりましたか?」
「私が兄を呼びに出かけた十三日の夕方です」
「けれどさっき検《しら》べたとき濡れていたではありませんか」
「あれは毎朝、書生の斎藤さんが冷水浴をするのです」
 俊夫君はしばらく考えて、再び尋ねました。
「先生のご親戚はありますか」
「叔父が一人あります。父の弟で、今、朝鮮にいるはずです」
「何をやって見えるですか?」
「何もきまった仕事はやっていないようです。自分で朝鮮浪人だと言っています」
「先生とは違ってよほど変わった人らしいですね?」
「ずいぶん変わり者です。蛇の皮をまいたステッキや、蟇《がま》の皮で作った銭入れや、狼の歯で作った検印などを持って喜んでいます」
 俊夫君の顔はにわかにうれしそうに輝きました。と、その時、警視庁の白井刑事が一人の青年を連れて入ってきました。令嬢は青年を見て、
「おや、斎藤さん、兄はどうしましたか?」
 と尋ねました。
 書生の斎藤が答えぬ先に白井刑事は言いました。
「信清さんはまだお帰しできないのです。私はお嬢さんに少しお尋ねがあって来ました」こう言って小田刑事の姿を見て、
「小田君、君は何の用で?」
 と言いました。
「俊夫君の案内役さ」
「や、俊夫君、ご苦労様」
 と、白井刑事は俊夫君を軽蔑するような口調で言いました。
「お嬢さんの依頼でお邪魔しています。時に解剖の結果どうでしたか」
 俊夫君は尋ねました。
「死因は絞殺だそうだ」
「そりゃはじめから分かっていますよ」
 と俊夫君は笑って斎藤の方を向いた。
「斎藤さん、先生はゆうべたいへん機嫌が悪かったそうですね?」
「たいへん悪かったですよ」
「一時頃に信清さんを呼びにいったのはあなたですか」
「僕です」
「先生は信清さんと喧嘩されましたか?」
「何だか言い合っていられました。僕は先へ寝ましたからよく知りません」
「今朝《けさ》先生の死んでいられることを見つけたのは誰ですか?」
「婆やです」
「婆やはどうしました?」
 このとき令嬢が口を出して、婆やは博士の死に驚いて気分が悪くなり、いま奥で休んでいると告げました。
「兄さんちょっと来てくれ、お使いに行ってもらいたいから」
 こう言って、俊夫君は意味ありげに眼くばせして、室《へや》を出てゆきましたので、私はその後からついて出ました。
 玄関のところへ来ると、俊夫君は小声になって言いました。
「兄さん、すまないが、これから電話室の後ろの物置部屋に入って隠れていてくれ、僕はこれから書斎へ行って、この暦の話をするんだ。そうすると、きっと誰かが電話をかけにくる。そしたら、何番の誰を呼びだして、どんな話をするか聞いて、この紙に書いてきてくれ、もっとも話は分からぬでもよい」
 私は紙と鉛筆を受け取って言われるままに、薄暗い物置部屋の隅にしゃがんで誰が電話をかけにくるかと、耳をすまして待ちかまえました。一分、二分、三分、こういう時の一分は一時間にも相当します。あたりは森閑《しんかん》としていて、自分の心臓の鼓動さえ聞こえました。
 十分ほど過ぎると、電話室の扉《ドア》の静かにあく音がしました。
「大手の三二五七番」
 と、呼びだしたのは、まさしく書生の斎藤の声です。
「もしもし、通り四丁目の蔦屋《つたや》ですか、青木さんを呼んでください」
 しばらくすると、斎藤は何やら話しだしましたが、符丁《ふちょう》のような言葉づかいで、何を言っているのかさらに分かりませんでした。およそ三分間ばかり話してから、再び扉をこっそり閉めて、あちらの方へ去りました。
 そこで私は物置部屋を
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