はならぬのだよ」こう言って再び机の前えに腰をおろし、「さて涌井君、君はニーチェを読んだことがあるか」と、だしぬけに質問された。
「はあ。以前に読んだことがありましたけれど……」と、僕がしどもどしながら答えると、先生は遮《さえぎ》って、
「無理もない。今どきニーチェなどを語るのは物笑いの種かも知れぬが、若《も》しそれが天才の仕事であるならば、たとい非人道的であっても、君は許す気にはならぬかね」
「さあ、そうですね……」
「いきなり、こう言っては君も返答に迷うであろうが、近頃はよく民衆の力ということが叫ばれて居るけれど、少くとも科学の領域に於ては、幾万の平凡人も、一人の天才に及ばぬことを君は認めるであろう」
「認めます」
「そうして、科学なるものが、人間の福利を増進するものである以上、科学的天才の仕事が非人道的であっても、君はそれを許す気にならないか」
 誠に大問題である。
「もっとよく考えて見なくてはわかりませんが……」
「その肯定が出来なくては、君に先刻《さっき》の約束どおり、説明を行うことが出来ぬ」
 それでは大変だ。是非、北沢事件の解決をきかねばならぬ。
「許してもよいような気がし
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