と申したそうです。兇行に使用された手拭は、被害者のものであるし、現場には指紋が残って居ないし、その他何一つ直接証拠となるものがなかったので、警察でも非常にもてあましたそうです。姓名をたずねても出鱈目をいうだけで生国や年齢をたずねても口を噤《つぐ》んで言わなかったそうです。とりあえず彼の指紋をとって、もしや前科者ではないかと、警視庁で調べても、指紋台帳に同じ指紋を発見することが出来なかったそうです。それから衣服の塵埃《じんあい》や耳垢まで顕微鏡的に検査されたのですけれど、やはり無駄に終ったそうです。
 で、要するに、唯一の証拠は女中の見証だけだったのです。然し見証というものは直接証拠となり得ません。女中が着物の縞柄さえ記憶して居て、それによって男が逮捕されたのですから女中の見証は間ちがいない筈ですけれど、偶然同じ着物を着て、同じ痣を持ったものがこの世の中に、もう一人無いとは限りません。又、仮にその男が女の家へ訪ねて来たとしても、必ずしも犯人だとは言われません。警察では女の旦那を検《しら》べたそうですが、疑を容るべき余地はなかったそうですから、先ず先ずその男が犯人たることは誰にも考えられま
前へ 次へ
全29ページ中21ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング