ですが、それ程強い犯罪性のないものには、多少の悔恨の念は残って居る筈です。私の今申し上げて居る男は、後に発狂してしまって、彼が殺人罪を犯すに至った(いや、厳密にいえば、殺人を果して彼が行ったかどうかさえわからぬのですが)その心的経路を知るに由ありませんけれど、周囲の事情から察して、恐らく、嫉妬のために殺人を行い、悔恨のあまりに発狂したと見るべきでして、而も、頑強に白状することを拒みとおしたのであります。
 その男が何という名で、何処に生れたものであるかということは今以てわかりません。殺された女は、ある人の妾で、女中と二人、浅草田町に小ぢんまりした家に住んで居《お》りました。女中がその家に雇われたのは半年ほど前で、妾になった女も、女中の来る一週間前から、其処《そこ》に家を持ったのだそうで、女中は、女が、その以前、何処に住って何をして居たのか少しも知りませんそうでした。
 兇行のあった日の夕方、男が始めて女の家を訪ねたそうです。女中はその男を見たとき左の頬にある痣のために、恐ろしい感じがしたそうです。すると、女は男を出迎えて、さもさも驚いたような顔をして、
「まあ、繁さん、あんた生きて居た
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