とを“|愚人の毒《フールスポイズン》”と呼ぶそうですが、それは、亜砒酸を毒殺に使用すれば、その症状によってきわめて気づかれやすいし、また死体解剖によって容易にその存在を発見されるから、愚人しか用いないという意味だそうであります。今回の事件においても、殺人者は愚かなことをしました。すなわち、亜砒酸を用いたためにあなたの疑いを起こしたのです。してみると、亜砒酸はこの場合においても愚人の毒たる名称を恥ずかしめなかったわけです。
 かくのごとく健吉くんに対する嫌疑は、動機の点から見てもその他の周囲の状況から見ても、だんだん深くなるばかりですが、しかし、単にこれだけの事情によって、健吉くんが母親殺しの犯人であると断定することは大昔ならいざ知らず、現代にあっては残念ながら不可能なのであります。すなわち、健吉くんが未亡人に亜砒酸を与えたという物的証拠が一つもないのであります。それがためわたしたちは、はたと行き詰まってしまいました。第一に健吉くんが亜砒酸を持っていたという証拠がありません。次に健吉くんが亜砒酸を何の中へ混ぜて母親に与えたかということが、いかに詳しく当時の事情を検べても少しもわかりません。たとえばお茶の中へ投じたとか、または夏のことですから飲料水の中に投じたとか、何か怪しむべさ事情があってもよいであろうに、令嬢に訊ねましても女中に訊ねましても、さっぱりわからないのであります。この事情が明らかにされて、しかもそれを裏書きするような物的証拠を得ない間は、健吉くんを犯人とすることはできません。それと同時に、わたしたちはたとい健吉くんに対する状況証拠がいろいろ集まっていても、物的証拠のない限りその物的証拠を捜すよりも、新しく事件を考え直したほうが得策だろうと思うに至りました。一般に現今の警察官にしろ司法官にしろ、物的証拠のない場合、先入見に支配されて物的証拠をどこまでも探し出そうとするために、色々の弊害を生じ、その間に犯人を逸してしまうようなことになりやすいのです。そこでわたしは健吉くんをひとまず事件から切り離してみたならば、どんなことを推定し得るかと思考を巡らしたのであります。
 健吉くんを事件から除いて考えるとき、まず未亡人が自殺するために亜砒酸を服用したのではないかと思われますが、その考えは言うまでもなく成立する余地がありません。未亡人には自殺すべき何らの事情もないし、
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