なだめたそうです。すると健吉くんは、それならば自分も永久に独身で暮らそうと言って、情死のことはふっつりと断念したそうですが、そののちもやはり毎日浮かぬ顔をして、ときどき溜息《ためいき》を洩《も》らしていたということです。
ところが、犯罪学的に考えてみますならば、自殺を思い止まった者が他殺を企てるということはきわめて自然な心の推移であります。栄子さんの忠告によっていったんは自殺の心を翻しても、心の打撃は容易に去るものではありません。さればこそ、ときどき溜息を洩らしたのであって、その溜息が凝って、ついに殺人という霧を心に降らしたのだと考えてもあえて差し支えはなかろうと思います。
かくて、健吉くんの殺人の動機を充分に認めることには何人《なんぴと》も異議があるまいと思います。そこで次に起こる問題は、健吉くんがいかなる方法を用いて殺人を遂行しようとしたかということです。するとここに、健吉くんの殺人方法を推定せしめるに足るような事情が突発しました。それはすなわち、未亡人の不思議な発病であります。それは悪寒と発熱と嘔吐と下痢を主要な症候としておりまして、健吉くんが宿直の日に家を出かけると、必ずその二時間ほどあとから始まりました。このことが、三回めの発病の際あなたの注意を惹《ひ》いて、あなたは、もしや亜砒酸の中毒ではないかとお考えになりました。まったくわたしどものような医学に門外漢たる者が考えても、その疑いを抱くのは当然のことであります。嘔吐と下痢とは亜砒酸中毒の際の主要な症候であるそうですから、健吉くんがなんらかの方法によって未亡人の飲食物に亜砒酸を投じたであろうということは、これまた何人も異議のあるまいと思われる推論なのであります。
さて、未亡人は前三回の発病からはさいわいに回復し、四回めの発病の際ついに絶命したのですから、この事実よりして、前三回に与えられた亜砒酸の量は致死量以下であったことを想像するに難くなく、殺人者の側からいえば、第一回に致死量を与えて突然絶命させては疑いを受ける虞があるから、まず三回だけ苦しませ、しかるのち致死量を与えて殺すというきわめて巧妙な方法を選んだと言わねばなりません。
ところが、殺人者は非常な誤りをしたのであります。それは何であるかと言いますに、毒として亜砒酸を選んだことです。ここにおいでになる片田博士のお話によると、西洋では亜砒酸のこ
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