人はその骨ばかりになった右の手をつき出して、私の左手をしっかりと握りました。私は驚いて、どうしたのかと夫人の顔を見つめますと、夫人は、
「先生、わたしはくやしいです。くやしいです」と、細い、然し、底力のこもった声で言いました。
「え? 一たいどうなさったのですか」と、私は、夫人の意外な言葉にどぎまぎしてたずねました。
 夫人は左の手で手巾《ハンカチ》を取って涙を拭《ぬぐ》い、暫らく苦しそうに呼吸してから、更に強く私の左手をにぎりしめて言いました。
「先生、わたしはくやしいです。どうか、先生、先生の手で、このお腹の子を無事に生ませて下さい。私はこの子が無事に生れさえすれば、今、死んでもかまいません。どうぞ先生、この子を殺さぬようにして下さい」
 こう言ってから、夫人は、にわかに咳《せき》をはじめました。そうして、右手を離して、口を掩《おお》いました。秋の末のこととて、庭の樹に啼《な》く烏の声が、澄んだ午後の空気に響いて、胸を抉《えぐ》るような感じを与えました。
「先生」と、咳がとまってから、夫人は幾分か嗄《しゃ》がれ声になって言いました。「だしぬけにこんなことを申し上げて、きっと、びっくりなさいましたでしょう。先生には、どうしてもお腹の子をたすけて頂かねばならぬので、何もかも事情を御話し致します。私が、お腹の子の無事を祈ってやまないのは、実は良人《たく》に対する復讐のためで御座います」
 思いもよらぬ言葉をきいて、私は、むしろ呆気にとられました。
「御不審はもっともです」と夫人は続けました。「先生、私たちの結婚生活は、決して幸福なものではありませんでした。結婚後一年間は比較的たのしい日を送りましたが、それから以後、私たちの心は、日に日に離れて行きました。良人は盛んに放蕩《ほうとう》をいたしました。お恥かしいことですが、私も面当がましい仕打ちを致しました。家庭はだんだん荒《すさ》んでまいりましたが、良人の乱行はつのるばかりで御座いました。とうとう良人は意中の女を得て妾宅を持たせ、そのほうに入りびたり勝ちになったので御座います。それまでは、あまり嫉妬がましい心も起きませんでしたが、どうしたことか、その以後、はげしく良人をにくむようになりました。そうして私は、何とかして、良人に復讐してやりたいと覚悟したので御座います。すると、そのうちに思いがけなく妊娠してしまいました。結婚
前へ 次へ
全9ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
小酒井 不木 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング